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 田坂 広志 著 「死は存在しない」   ・・・ (2023/10/29)

  ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 ―  (光文社新書)


 
 まず、著者の田坂広志氏の本は、自分も若い頃に何冊か読んでいますが、いずれも、とても説得力のあるものでした。

 この本を読んで最初に感じたのが、テーマが「死」であり、また解説が最先端量子科学の視点からというものですので、この本は、興味を持ち一気に読み上げるタイプの人と、荒唐無稽でなんとも受け入れがたい、と読むのを止めてしまうタイプの人かに明確に分かれていくのではないかという印象でした。(ちなみに私の奥さんなどは、理解出来ないからそこで解説を止めて!と悲鳴をあげるほど。笑)
 私には、なんだか「2001年宇宙の旅」のようなSF小説を読んでいるような快感があり、読後は、とても満足感のある本でした。

 私なりの理解を私なりの言葉で表現してみると以下のようになるかと。まず丈夫な箱を用意し、その中の空気をすべて抜いてみます(つまり真空状態?)。そうすれば、一般的な考えでは、箱の中には「何もない」状態になるわけです。しかし、田坂氏の説明によれば(量子科学によれば?)この箱の中には膨大なエネルギーが存在し、そのエネルギーは地球上の水分をすべて沸騰させられるほどのものなのだと。

 確かに、ブラックホールは周りの光すら取り込んでしまうので、外に光が出てこない。つまり外からは見えないのがブラックホールだ、と。しかし、ブラックホールは次々と周りのものを飲み込んでいき、膨大なエネルギーの塊となっているのだそうですね。だとすると、前述の「箱の中を真空にしても、その中には膨大なエネルギーが存在する」は、あり得るのかな?と。

 話しの中心となるのが「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」。ゼロ・ポイント・フィールドには、宇宙に生まれたすべてのものが「記憶」されているのだという。今この世の中に存在する我々と同じ存在もこのゼロ・ポイント・フィールドに「記憶」として存在する。我々がこの世で死を迎えると、このゼロ・ポイント・フィールドにいる我々に帰依していくのだという。その過程、つまりこの世からあの世にいる自分に統合される段階の時間を、我々は「お通夜」や「初七日」などと呼び、個人を見送る時間としている。

 更に、宗教の世界でも、言葉は違ってもこうした存在を理解していた人がいたのではないかと。例えば、般若心経にある「色即是空」などがそれ。色すなわち空なり、とは田坂氏の解説によれば、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を仏教なりに捉えたものなのだと。

  詳しく知りたい方は「こちら」を読んで見られると良いのかも。


 もともと人間の存在は、ゼロ・ポイント・フィールドにある自分が「主」であり、この世に存在する自分は「従」なのでしょう。「従」なる自分は、いつか死を迎えるが「主」なる自分に吸収されていく形となるようだ。そういえば、キリスト教の話しの中に「キリストを信じるものは永遠の命を与えられる」とあるが、多分それはゼロ・ポイント・フィールドにある自分「主」には死がないからだろう。

 私の家内ようような賢い人(国立大学で数学を学んだ人)には、恐山のイタコのような話をすると分かって貰いやすいのかも。
※ ウィキペディアによれば「イタコは、日本の東北地方の北部で口寄せ を行う巫女のことであり、巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職である」のだそうです。

 田坂氏の本によれば、ある種特殊な能力を持った人だけが、死の世界(この本の中で言う、ゼロ・ポイント・フィールドの世界)と交信出来、そこの「記憶」として残されている人とコミュニケーションの仲介をすることが出来るのだ、と。イタコの能力を断片でも信じることが出来る人ならば、ゼロ・ポイント・フィールドについても理解しやすいのかもしれない。

 最後に。Amazonの一般の方の感想を見てみると、「な〜んだ仮説だろ。証明して見せろよ!」というのがいくつかある。私は、これは人間の傲慢さのように思える。この世界、見えるもの、証明されてきたものなんて、見えないもの、いまだに証明されていないものからすればほんの一部。見えないから、証明されていないから、で切り捨ててしまうのは、ひとえに人間の傲慢さによるものだという気がする。

 今後とも私は生きていることに謙虚でありたいと思う。なぜなら知らないことだらけなのだから。






映画、メリーポピンズから。(亡くなった母に会いたいと言う子供に、メリー・ポピンズが歌でなぐさめる)





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