ホーム目 次 / 前ページ / 次ページ 


346. ECサイトで言えば 楽天 vs Amazon みたいな世界が中古車輸出にもあった ・・・ (2021/07/18)


            

 現在は身売りしてしまったが、かつてはソフトバンクグループの1社として中古車輸出サイトを構えていた。

 トレードカービュー自体が中古車輸出をしていた訳ではなく、あくまで統合サイトに加盟した多数の事業者が輸出を手がけていた。  ビィフォワードは力を付けて独自にサイトを構え、その後急拡大した。上記のように多言語に対応出来ているのもその特徴の1つ。
 気がついてみれば、ある時から急激に輸出が落ち込んできた。(右の)ビィフォワードが月に4000〜5000台もの中古車を東アフリカ諸国(右ハンドルの国々)に輸出していたのだ。当時名刺交換をした輸出業者さんは皆、撤退していった。

 私がTradecarviewに加盟し輸出をしていた時、いわばこれが私の店舗ともいえるものだった。  アフリカからの、ネット上でのトラフィックが膨大であったためグーグル本社が、いったいどんな会社なのか日本まで調べに来たという。


 楽天は中小零細ショップの集合体ゆえ、アマゾンに対抗して送料を無料にしたいと思っても加盟店が反対するなど、必ずしも統一的な行動が取れないのはこのため。かたやアマゾンは基本的には大きな1社が運営している。さらにECサイトは配送が生命線とばかりに、日本に進出するに際しまずは大きな倉庫+配送センターを用意。基本プライム会員が対象かと思うが送料無料と出来たのも、自分の向かいたい方向は自分で決められる優位さがある。

 こうした関係、私がやってきた中古車輸出の世界にも近似したものがあった。具体的には当時のトレードカービューにも当てはまり、彼らが時折使っていた言葉、「当社はフランチャイズ運営をしている訳ではないので、儲かるも、儲からないも、加盟店次第」と加盟店との間に距離感があった。かたやビィフォワードは、山川社長の号令で、ワンマン会社として、ビジネス拡大へと舵を切っていった。この差は、アフリカ市場のように、どんどん変化していくビジネス対象にあわせていこうと思えば、とても優位だったことは明白です。



 以下は、この本の内容をかい摘んでご紹介しています。 (青文字は私からの補足です


  ビィフォワード社の山川社長が、ある日オークション会場に出入りしていて輸出に興味を持つようになった。日本では廃車にするような車を買付している人がいる。調べてみれば多くはパキスタン人たちで、彼らは同じパキスタン人が経営している中東ドバイのディーラー向けにそれらを輸出していた。山川社長は、日本では廃車同然の車も海外では商材として価値があるのだということにここで気がついた。

 ならばと、たまたま紹介されたミャンマー向け輸出をした。販売をミャンマー人に任せた結果、2500万円の損失を出した。では今度はニュジーランド向けに輸出をしてみた。この時は現地にいる”日本人”ディーラーに任せてみたが、それも2億5000万円の赤字を出して撤退した。いずれも山川氏には中古車の買い手が見えていた訳ではないので、まずは現地に精通したディーラーに任せればなんとかなると商材(中古車)を現地に提供してスタートした結果。そのいずれも赤字だったが、やはり他人任せの販売ではビジネスは上手くいかないということを学んだ。

 ※ この事例を私の友人で経営者に話したことがある。彼、いわく、自分が出来ることを、たまたま手が足りないから、ということで他人に任せる場合はまだ上手く行くが、そもそも自分が出来ないことを他人に任せる場合には、ほとんどの場合が失敗する、と。なるほど。


 流れが変わったのが2006年2月、中古車輸出サイトのトレードカービューに加盟したことからだった。当時はトレードカービューも鷹揚で、各社ページに、自社サイトへ誘導するためのURLを張ることを許容していた。なので、最初の購入はトレードカービュー内店舗から買ったアフリカの人が、次の車を買う際にはビィフォワード社サイトに直接来て買ってくれるようになった。というのも、多くのアフリカ人は、人生で様々なことで騙された経験を持つようで、とても用心深くなっている。反対に、一端相手への信用が生まれると、あとは順調に仕事が進んだことはビィフォワードにとってラッキーなことだった。
 お陰で、ビィフォワードは、ECサイトにおいて、如何にして集客するかという部分が解決出来てしまった。(後に分かるが、トレードカービューが当時、自社ECサイト内に、加盟店が独自のURLを張ることを黙認していたことは大きな間違いで、これがお陰でビィフォワードに独立する足がかりを与えてしまったことになった。しかも力をつけた、かつては加盟店の1社に過ぎないビィフォワード社にすっかり商圏を奪われてしまう結果となったのだから)
 


 アフリカ向けの場合、日本国内では商品価値のない車(10年超、10万キロ超)でも売れた。このことに当時の日本人の多くはこれに気がついていなかった。ゆえに、このことに早く気がついていたビィフォワードは先行者利益とばかりに、優位に働き、順調に売上が伸びたのだった。

  中古車の買取専門店であった(ビィフォワードの前身)会社からの転身ではあったが、経験のない海外向けの輸出でも(日本国内でのやりとり部分は)比較的に楽だったのだそう。というのも日本では、通関などの手間な部部分は乙仲という専門会社がすべて手配してくれていたからだった。ただ、ビジネスが大きくなってくると別な課題が出てきた。それは船の手配だった。というのも当時は中古車輸出に使える船は限られていたからだった。その流れが変わったのが2008年9月、リーマンショックからだという。

 1.リーマンショックで競合他社が激減した(プラス、急激な円高も、輸出にマイナスに作用した)

 2.仕事量が減ったことから、船会社の方から「輸出する荷物は無いですか?」と聞いてくれるようになった。

 こうした具合に、風向きが変わって ビィフォワードは以下のように急拡大を始めた。(現在の規模から見ると極端に少ない台数だったが、当時としては画期的だった)

 2009年2月 月間  100台の壁を突破

 2010年3月 月間  500台突破

      9月 月間 1000台突破

 次のステップで、自動車専用船、RoRo船が使えるようになった。このRoRo船はもともとは日本で製造した自動車を海外に輸出するために用意されたものだったが、空きスペースに中古車を積ませて貰えるようになった。それも、中古車輸出がビジネスとして成長してきていればこそだったのだろう。

  ※ 私が中古車輸出を始めたのが2010年9月、最初の1台をウガンダ向けに輸出したのが10月から。まだビィフォワードを脅威と感じるレベルではなかった。


 アフリカの注文が急激に増えた背景には、アフリカの人達の間に中国製の低額スマホが普及したことだった。それまでは個人が中古車を買うとすると、自国・アフリカ内の中古車ディーラーに手数料を払って買って貰うしかなかったが、この時期からはスマホさえあれば、どこからでも(インターネットに繋がり)ビィフォワード社から直接、好みの車を手頃な金額で買うことが可能になった。これが急激にアフリカのお客さんが増えた背景だった(それまで中古車業者・ディーラーからの注文がメインだったものが、どんどん個々人からの注文に代わっていったので、対象者は爆発的に増えた)。

  ※ 日本でもこうした技術革新があらたな転換期を生んだことがあった。あの楽天が急速に売上を伸ばした時期、ヤフーがADSLという技術で(それまでは時間単位での課金だったものを)「常時接続」が時間を気にせずネットで買い物が可能になったことが背景にあった。同様に、アフリカでスマホが急激に普及したことが、ビィフォワードの中古車ビジネスに幸いした。

 こうした背景を更に生かすべく、ビィフォワードは2011年、アフリカの個人向けに「ネット広告」を出すまでになった。お陰でビィフォワードの売上対象者の7割がアフリカの個人購入者となっていった。更に、ビィフォワードがマラウィのサッカーチームのオーナーになるまでなったという。



・ 輸出時の決済方法について

 このビジネス(日本からの中古車輸出)の基本、料金前払いはトレードカービューが先鞭をつけていた。(ちょうどフリマアプリのメルカリのように、購入を決めた買い手は、代金をメルカリに払う。メルカリが売り手が商品を発送したことを確認すると、あらためてメルカリが預かっていた代金を売り手に払ってくれる。これと同じやりかたです。)
 トレードカービューも同様で、アフリカの人が購入を決めたのち、まずは代金をトレードカービュー宛に送金。その連絡を受けた売り主は、船積を開始。船が出港したのち、B/L(船荷証券)のコピーをトレードカービューに提示。それを受け、所定の手数料を引いたのち日本国内の中古車事業者に払ってくれた。

 かつてミャンマーや、ニュージーランドでのビジネスでは、車は先に現地に送っていたものの、代金は現地で売れた後でないと支払われなかった。それがトレードカービューによるビジネスモデルに慣れたアフリカの人たちが、ビィフォワードにも注文時点で支払ってくれるようになった(つまり前金ビジネス)。このビジネスモデルが定着してきたお陰で、ビィフォワードのキャッシュフローは何倍にもなり、更なる拡大に拍車が掛かった。

 ※ 私が加盟している埼玉県のあるオークション会場での話し。オークション終盤、主催者が「本日の大量取引会社様」ということでビィフォワードの取引台数を発表した。みれば、なんと1社で100台もの中古車を落札したとのこと。

  ちなみに中古車オークションそのものは、日本全体で毎週40カ所以上で毎週毎週開催されているが、この会場はその中の1つでしかない。そこで1日の開催で100台落札、ということは、いったい日本中のオークションを通じて、月間何台買付をしていたのだろうか。
  当時、聞いたところでは月間4000〜5000台をアフリカに輸出していると。それだけ輸出しようとなれば、この位の台数をコンスタントにあちこちの中古車オークション会場で落札し続ける必要があるのだろう。この時点で、もはや中小零細とでは勝負にもならない規模である。


 (主要中古車積み出し港として、従来の関東圏、愛知圏、関西圏)の他に、2010年福岡県の苅田港が中古車輸出に目を向けてくれ、それまでは関西圏まで陸送せざるをえなかったものが、このお陰でビィフォワードが九州地方で調達した中古車の専用港として、ここを使えるようになった。拡大が加速されることとなった。・・・もはや中古車輸出が荷主として無視出来ない業界となったことの証明かもしれない。


 ・ 2011年、放射能検査で3億円の損失を出したビィフォワード。

 2011年の東北大震災は中古車輸出業界にも大きな影響を与えた。原子力発電所からの放射能漏れは輸入側に極端な拒否反応を招き、輸出する車の全品放射能検査を余儀なくされた。放射能汚染は目には見えないがため、落札した車を港まで搬送して始めて発見されるという状態。放射能検査で落ちた車を、多くの業者は苦肉の策とばかり再度中古車オークションに出品することとなった。
 福島で起きた放射能汚染ゆえ、南へ行けば大丈夫と思いきや、なんと関西以南の中古車オークションで仕入れたものの中にも汚染者が発見されるようになった。当時、一般の人が放射能検査機などを持つはずもなく、結果中古車オークションでの中古車の買付はまるでババ抜きをやっている状態だった。(当時私の判断は、安心してビジネスをやる状態ではないと3ヶ月ほど休業した)


 中古車業界全体での取引が減り、価格が下がった中で、ビィフォワードは買付の手を緩めなかった。結果、

2010年 9月 月間 1000台越え

--------------------<-- 2011年3月 東日本大震災 日本は大混乱に

2012年  6月 月間 5000台になった

2013年11月 月間  1万台を突破

2014年  6月 月間 1.5万台を突破


 ビィフォワードは、この時点でアフリカまで月に8便を使って中古車輸出をしていたという。

 2010年、トレードカービューが加盟店への加盟料課金の方式を変更した。それまでビィフォワードは月会費として5万円の支払で済んでいたものが、新しい課金方式を試算すると月700万円になることが分かり、ビィフォワードはトレードカービューからの退会を決断した。すでにトレードカービュー加盟期間に力をつけてのいたので、独自路線への転換は、むしろビィフォワードのビジネスにはずみをつける結果となった。

 ※ トレードカービューという会社、晴海のトリトンスクエアにオフィスを構えていたが、振り返ってみると、様々なミスを繰り替えし、結果自滅した感じだった。のちに、元社員に聞き取りした内容からすると、事業部長という人が(目先の売上アップにばかり目が行っていたようで)広い視野でものを考えられる人ではなかったようだった。


 ビィフォワードは順次、自社サイトの強化を始めるのだが(皮肉にもトレードカービュー退会がその後の展開に大きく寄与することとなった)。一例だが、自社独自のサイトを構えたことでページの設計自由度が高まった。具体例をあげると、掲載する車の写真枚数を増やすことが出来たこと。このお陰でアフリカの買い手からの(不明点が明確になり)質問が大きく減る、という好循環が生まれ、ビィフォワード社内の業務量低減にも繋がったという。

 ※ この頃、トレードカービューで輸出をしていた中小零細事業者にも影響が色濃く出た。私が名刺交換をした40事業者さんが中古車輸出事業から撤退していった。ある人は業態変更をして国内で中古車の買取事業を始めたり、またある人はすっぱり中古車とは縁を切り、タクシー業界に転職した人も出た。


・ 現地で知名度が上がった結果、公式パートナーが次々と生まれた(アフリカのことはアフリカ人に任せた)ことが、更なる前進を生むことに。

@ 日本への送金代行(あらたにビィフォワードから車を買う人、ほとんどは海外送金などしたことがない人ばかりだった)。たとえばザンビアでは郵便局が協力をしてくれ、局内に専用パソコンを置いてくれ、買い手はその場で送金の手続きが出来るようになった。その後、郵便局ではカバーしきれない取扱い量を担うべく、ザナコ(ザンビア国立商業銀行)が日本への送金代行をになってくれるようになった。こうしたことが買い手の利便を向上させたばかりでなく、あらたな雇用も生まれるという好循環が発生した。

A 東アフリカ諸国の中には海に面していない国もある(例えばウガンダ)。そうした国へは最寄りの港(ケニアのモンバサ港など)へ到着した自分が注文した車を、まずは通関の手続きをしなければいけない。買い手自身が遠路、港まで出向くというのは大変だったので、現地港での通関業務代行(主に輸入関税の問題)を代行してくれる業者を探す必要があった。この部分に、ビィフォワードの現地公式パートナーになりたいと申し出があり、そうした業者を上手く活用することで、より上手く仕事が回るようになった。

B シティ・デリバリーを開始した。、最寄りの港から(例えば隣国ケニア、モンバサ港から)、日本から届いた中古車を数百キロの道のりを業者に依頼して、自国(ウガンダ)まで運んで数百キロを陸送して貰う必要があった。ビィフォワードには、パートナーになりたいとの要望が多くの業者から届いていたので、そうした会社の中から、ビィフォワードの現地公式パートナーとして陸送業務を委託出来るようになった。こうして、ビィフォワードが日本の中古車オークションで買付した車が、アフリカにいる買い手のところまで届くよう、手配の一気通貫が可能になった。これがさらなるビィフォワードの発展に貢献してくれることになった。

 こうして、かつては日本国内で解体するしかなかった中古車(10年超、10万キロ以上走った車を買いたいという日本人はいなかった)が、こうして輸出出来るようになり、他業界(例えば船会社)も注目してくれるような大きなビジネスとなった。


 (この本によれば)現在、ビィフォワード本社には、ケニア、ウガンダ、ソマリア、マラウィ、タンザニア、モロッコ、カメルーン、アルジェリア、コンゴ民主共和国などの出身者が働いてくれているのだとか。社長の山川氏いわく、買い手が自国の言葉で買付出来ることで、けして低額ではない中古車購入をより安心して買付出来るようにしてあげられたそうである。

 ※ 私自身の場合は2013年がトレードカービューでの売上がピークとなり、翌年から急激に減少した(背景にはビィフォワードのビジネス拡大の影響があった)。もはや好転する可能性もないのでトレードカービュー加盟店から退会した。その後は偶然の出会いで中国の中古車業者と知り合い、彼が移民を試みているニュージーランド輸出が始まった。手始めが2015年の1台 550万円を越えるニッサンGTRの輸出だった。以降、幸運なことに、アフリカ向け輸出を大きく越える売上をあげられるようになった。






<編集後記> 
 冒頭、楽天 vs アマゾンという例え方をしたが、楽天に相当するトレードカービューは、売上が減少し始めると、いろいろな施策(悪あがき?)を実行し始めた。当時イチ加盟店であった私から見れば、追い詰められたトレードカービューがやっていたことは、蛸が自分の足を食べるかのごとく、自滅への道を自ら推し進めた感があった。当時のことを私はこんな風に書いている
 かたやビィフォワードは、ここに紹介したように、山川社長が過去の失敗経験から学んだことをベースに、あるべき方向へと自社を導いていった。ダメな方はもっとダメな方向に向かい、良好な方は、より良好は方向に向かった、ということ。

 今回この本を読んだことから、当時(2013年)を振り返ってみた。大手輸出事業者となったビィフォワードのさらなるビジネス拡大で、加盟していたトレードカービューの加盟店・個人零細事業者などもはや太刀打ちなど出来ようのない状態であったことは理解していた。あらためてこの本で、あれだけ流行した個人ビジネスとしての中古車輸出も、いまや一個人が手がけるには、ニッチな市場でも見つけない限り、継続は難しいだろうなということが理解出来る。

 そんなことから以前はニュージーランド市場向けを、また最近は、あえて左ハンドルの国、ガーナ向けを細々と続けている。というのも、この国には、アメリカ留学時代の同級生が住んでいて、彼がガーナで受け取る中古車のハンドルの付け替えが出来る工場を見つけておいてくれたことから可能となった。このハンドルの付け替え、かなり手間を要するので、大量輸入、大量加工とはいかない。私と彼の取引のように、少量の取引だから可能なこと。

 日本の流れも、2013年の「高年齢者雇用安定法」の一部改正で、65歳までの雇用責任が事業主に義務付けられ、さらに2021年4月施行「高年齢者雇用安定法」の改正により「70歳までの就労機会確保を企業の努力義務とする」というようになってきた。あたかも私は政府の施策を先取りしたかのように(60歳で起業し)70歳まで働いた。71歳になった現在、このお仕事を最後に、あらためて隠退生活(ゴルフ三昧?)に入っても良いと思っている。その前に、もう一度、ガーナ人の同級生を首都アクラに訪ねたいと思っている。(はじめて行ったアフリカは”こんな ”感じでした)


 



ホーム目 次 / 前ページ / 次ページ  inserted by FC2 system