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331. 内館 牧子 著 「終わった人」  ・・・ (2021/01/24)

 

 このコロナ禍の中で図書館で借りて読む読書量が増えた。以前の引っ越しで本の処分が大変だったもので、すべて図書館の蔵書をデータベースから選び、それを借りている。それらの本の中には「小説」の類はまず含まれない。というのも、私、頭が悪いもので、登場人物が増えてくると誰が誰だか分からなくなってくるのだ。たまたまこの本は、毎週5〜6冊借りて読んでいる家内の本の中にあったのだ。

 内館牧子氏のお名前は、元貴乃花親方が日本相撲協会を退職した際の問題について、TVに出演した元横綱審議委員ということで発言していたのを覚えていたくらいだった。こうした本を書かれていたとは知らなかった。読んでみたら、とても面白かった。


 主人公は昭和24年生まれというから私と同学年。生まれ育ちが岩手県で進学校に進み将来を嘱望されていた、ということで背景は(私とは)同じではなさそう、というか以降もほとんど異なっていた。

 まず主人公、田代は東京大学法学部の出身、見合いで結婚した奥さんはミッション系のお嬢さん幼稚園から女子大まで続く学校(多分、聖心女子のこと?)をエスカレーター式に進級した。卒業後は弁護士をしていた父親の事務所で働いていたのだとか。田代は大学を卒業後、メガバンクに就職、順調に出世を重ねていく。45歳で企画部副部長になるもののその後組織内で権力バランスが代わって49歳で彼は関連会社に出向になる。更に51歳で「転籍」を言われる。つまりもはや本部に戻ることはないと決定づけられたのだ。しかし、関連会社では役員で年俸1300万で63歳まで籍を保証して貰えたのだから、世間一般から見れば好条件に思えるが、東大を出てエリートコースを歩んできた主人公にとっては屈辱的だったようだった。

 定年後の時間を持てあました主人公、奥さんの勧めもありカルチャースクールにでも通よおうか、となる。かたや奥さんの方は40代からちゃくちゃくと準備をしてきて、ご主人の定年のタイミングに合わせて自分で美容院の経営を始める。主人公は大企業出身者にありがちな、定年になった男、何の鎧もなくしたただの男へ、別な言い方をすると、本のタイトルにある「終わった人」になったと感じている男だ。

  カルチャースクールでは受付にいた30代の女性に恋心を持つ。ずっとあとで分かるだが、この女性、主人公に思わせぶりなそぶりを見せながら、なんと奥さんの弟でイラストレータと付き合っていたのだった。それが露見したのはほんの偶然で、たまたま家族で立ち寄った義弟のマンションに彼女が酒の肴を持って泊まりがてら尋ねてきたからだった。このあたりは小説を面白くする工夫なのかもしれない。

 これまたカルチャースクールが関係していくのだが、昼間はシニアの男女ばかりの中に、唯一30代の男性がいて、その後のストーリーに大きな役割を果たしていく。この男性、鈴木という男なのだが、40人程度でソフト開発をやっている会社を経営していたのだ。かなり儲かっているようでお抱え運転手付きのベントレー(ロールスロイスの姉妹車)に乗っている。ある時、この鈴木という社長から「顧問として当社に来てくれませんか?」と誘われる。主人公は定年後にようやく自尊心を満たしてくれるレベルのポジションを得ることになる。
 さらにこの話しの展開がある。鈴木は仕事の手を広げ、東南アジアにクライアントを見つけ事業を拡大していく。ところが好事魔多しとでも言うのだろうか、ある日、心臓病で急逝してしまうのだ。会社としては存続をはかるべく、役員二人が主人公の田代にあと(社長を)を引き受けてくれ、と懇願する。一度は経営者になってみたいと思っていた主人公はこれを受けてしまう。しかし、次の展開で、東南アジアの取引先が倒産してしまう。ここから敗戦処理に奮闘する。最後の残されたのは代表取締役として抱えた負債残、9000万円が残る。
 ことここに至る過程で主人公は奥さんとの仲が悪化してくる。そんな両親を見ていて娘が発言する。「どうせならいい暮らしができそうな、東大出のメガバンクの男を捕まえたんでしょ。もしも、結婚した男が一生、ずっと健やかで豊かで、自分を幸せにしてくれると思っていたなら、ママはバカ。妻になれる器じゃない」、と言い放つ。まるで社会全般の感想を代弁してくれているかのような言葉だった。

 さらに、ここからの言葉が泣かせる。

 「生身の男だもん、病気もあれば事故もあるよ。他にも色々と何があるかわからないに決まってるじゃない。結婚なんてギャンブルだよ。それに一人では食べられないから男をとっつかまえた以上、女もかぶらなきゃいけないものは当然ある。結婚はギブアンドテーク。その根性がないなら、別れる。二つにひとつだよ」と。

 最終的に、主人公は9000万円の負債を返済し終え、ふるさと岩手に戻ろうとする。過日、数年ぶりかでいった岩手で同級生たちと会い、そこに心地よさを感じる。ここに居れば、気取りも気負いもなく素のままの自分で居られる。介護老人となっている母の残りの人生に寄り添っていきたいとも思う。既に心が離れてしまっていたと思われる妻にそう言い残して家を出る。新幹線に乗り、福島あたりまで来たところで奥さんから電話がある。ダンナが戻るという実家に妻として一緒に行き、挨拶をしたいというのだ。

 もしかしたら著者が一番言いたかった言葉だったのかもしれないのはコレ。「人間、最後に行き着くところは皆、一緒」、ということ。どこの大学を出ようが、どこの企業のエリート社員だったであろうが、最後は仕事もタイトルも、何もなくなり、ただの人間になる、ということ。それが分からない人がいたとすれば、それはバカ。




 この小説、とても面白かったが、それほどには共感しなかった。というのも、私には闘争心が希薄で、同級生と成績などで競う気がまったくなかった。あまり勉強熱心ではなかった私を見て、母は大学が続いている付属の高校に入学させた。お陰で大学はエスカレータ式に入学出来た。
 大学時代をのほほんと過ごしてきた私だが、就職機会にも恵まれた。大学3年の12月、ゼミの指導教授に呼ばれ、先生が経営コンサルタントとして指導に行っていた二部上場企業(従業員300人)に企業訪問することになったのだ。先方の企業では、副社長と人事課長が対応してくれた。ゼミの指導教授の推薦もあり、なんと内定を貰えてしまったのだ。ゆえに大学4年時は気楽なものだった。

 こんな楽な人生を歩んでいたあまちゃんゆえに、就職してから人間関係では苦労した。営業職であった私にとっては現場の職人さんたちとのやりとりが苦手だった。また真面目すぎて神経質な上司のチェックにもめげそうだった。1〜2年はお客様と現場との板挟みもあり、精神的にも辛く、近所の診療所で胃薬を貰う日々が続いた。おかげで体重も10kg減った。しかし、そんな生活も3年目になってウソのように晴れてきた。ある種、開き直れたからだったのかもしれない。職場でも信頼を得られるようになり、組合からも職場委員を頼まれるようになった。ここまで来て、どこかふっきれた感じがした。大学時代の同級生の手助けもあり、会社は退職して、アメリカへ留学をしたのだ。

 留学は、私のその後の人生を大きく変えた。留学をしたのが1976年(米国、建国200年の年で)日本ではオイルショックが始まった頃だった。留学前あたりからかつての同級生の女性と付き合い始めていた。帰国して、仕事が決まったら彼女と結婚しようと考えていたのだが、予想に反して帰国した時もまだ日本経済はオイルショックから立ち直りきっていなかった。再びゼミの先生を頼ったものの、仕事がなかなか決まらなかった。めげかけていた私に、彼女が「仕事が決まらなければ、二人で塾でも始めましょ」と言ってくれた。というのも彼女は中学校で数学を教えていた。そこで二人が揃えば、英語と算数を教える塾が開けるはずだ、と。実際には自分で塾を開くのではなく、語学の専門学校に職を得ることが出来た。そこからは、やってみたことのない仕事と出会いがあれば、どんどん転職をしていった。学術交流団体であったり、大学職員であったりだ。その後は分野を変えて、パソコン関連の社団法人を足場にステップアップ、外資系企業の立ち上げ、立て直しを交互にお手伝いをしてきた。気がついてみれば定年の年になっていた。


 振り返ってみて、アメリカ留学の時代に思ったことは「自分の人生は自分で作る」だった。そんな考え方から、定年後には、まず手始めにアメリカ留学時代の同級生を訪ねてアフリカ・ガーナに行った。現地に友人がいることは、私の知りたいことを得るのにとても役にたった。その時思いついたアイデアから、帰国後に中古車輸出の事業を始めた。退職時の手持ち金の中から、創業資金として300万円(有限会社の資本金相当の資金)だけは別にしておいた。これが無くなる前に目が出なければ起業はあきらめるつもりだった。

 個人事業主は経営者であるとともに現場の労働者。関東圏だけでも10カ所程度、中古車売買のオークション会場がある。値段が折り合えて落札出来た車を輸出の為にまずは写真撮影から始める。落札出来た車のところに雑巾を持って周り、まずは車のヨゴレをざっと落とす。そして海外向けにアピールする写真を30枚程度撮影する。時には、しゃがみ込んでエンジンルームの床下も撮影する。ある時、たまたま7台も落札出来てしまったもので、この写真作業だけで数時間かかった。撮影終了後、誰もいなくなったオークション会場の駐車場から建物内の事務所に顔を出すと、「えっ、まだ会場に残っていらしたのですか?」と感心された。とまあこんな具合に、ヨゴレ仕事も多かったが、それを含め、自分が経営している仕事の一部としてやっていることゆえ、楽しかった。

 個人事業主とはいえ、生まれて始めて、経営者となった訳だ。勤め人だった時代には優秀な経営者の補佐をすることが自分の役割と思っていたが、自分で経営してみると、大変ではあったが、とても充実した仕事人生がそこにあった。あれから10年が過ぎた。売上のピークは2018年、法人成り(青色申告事業者から株式会社へ)の目安と言われている2000万円(私の場合は、売上であって利益ではないが)を達成したのだった。起業当初より定年後に自分でやる事業は10年続けることが出来れば御の字だと思っていたこの仕事もその後緩やかに下ってきた。(定年後の事業は終わり方をきちんと考えておかないといけません)


 この小説の主人公と重なる部分があるとすれば、今かもしれない。中古車輸出を止めるとなれば、そのあとどうしようか、ということ。かつては専業主婦だった奥さんは、65歳から地元のシルバー人材センターに登録し、各種資格試験の試験監督などで忙しく、充実した生活をしている。なのでこの小説の主人公のように、時間のある方が家事はやるのが当たり前とばかりに掃除はほぼ100%私が。料理は20%程度は私が、と主夫役をすることが増えた。卑屈感などはまったくない。働きながら子供二人を育てている娘にも実感を持って支援出来るようになった。

 今年の運勢は良さそうなので、この1月、2月は、いろいろ動いてみようと思っています。先をあせる必要もないので、楽しいと思える何か、これからさしあたって5年程度を過ごすテーマを見つけたいと思っている今日この頃です。







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