ホーム目 次 / 前ページ次ページ        


311. 同窓会に行けない症候群(鈴木信之、著) ・・・ (2020/07/05)


  コロナウイルスの感染で「夜の飲食」が問題になった。私の場合は年齢的なもの、というよりは性格によるものかと思うが、皆さんのように、「親しい仲間と飲みに行けないのは辛い」と考えることはない。

  そもそも、親しい友人だからといって、私自身はそんなに頻繁に会いたいとは思わないのだ。例えば中学生時代の親友、TT君。航空会社で長くエンジニアとして働いてきた彼、とても物静か。私が誘えば出て来てくれるが向こうから誘ってくることはない。というのも彼、とにかく仕事をするのが好き。定年後自分で探した会社に採用され70歳を過ぎた今もイキイキと働いている。昔ふうの言い方をするならば「頼り(連絡)がないのは達者な証拠と」彼を見守っている。

  もう一人は高校時代の親友、TS君。彼も同様に70歳を過ぎた今も働いている。ゆえに、毎日が日曜日の私と違って会うとすれば週末に、となる。二人ともお酒を飲まないこともあるのだろうが、お互いに「飲みに行かないか?」と誘うことはない。どうやらコロナ禍の社会においても、頻繁に会わずにはいられないのは、いずれも「飲んべえ」だからだろうか。

  中学、高校と紹介したが、大学時代の同級生について。10人ほどの親しかった仲間がいて、毎年場所を変えて一泊の旅行に行っている。私はといえば、東京近郊(伊豆あたりまで)であれば行くが、富士川以西となると参加するつもりはない。また毎年というのにも抵抗感がある。毎年会わないのは、久しぶりに会ったという感動の度合いが落ちてくる気がするからだ。

  例えとして。私は40代初めから、年に一回は家内と一緒に南の国フィジーの小さな島、マナ島に行くのを習慣にしていた。きっかけは、仕事で追い込まれていた年、あまりに無理難題を言うトップに反発して、クビと言われてもいいからと、「このプロジェクトが終わったら1週間の休暇を取りますから」と宣言した。私の剣幕に驚いたのか、簡単のOKしてくれた。


  始めて行った国、フィジーの更に離れ小島「マナ島」へ行った時は、どにかく海の青さ、フィジアン、特に女性達の大らかさに魅了された。ここで癒された感動が病みつきとなり、それから10年ほど毎年「マナ島」に通った。ホームページ まで作るほど填ったフィジー旅行、ある時、旅行するのも、ホームページを維持することも止めてしまった。理由は、あの素晴らしい景色を見ても以前ほどには感動しなくなったから。これってなんてもったいない、と思ったからなんです。そこで次回は、再訪する時に以前同様に感動が得られると思うまで間を置こうと思ったわけだ。

 とまあへそ曲がりな私は、好きだからその対象(人であったり、旅先であったり、と)離れてみよう、とすることがある。




  さて、タイトルの本、「同窓会に行けない症候群」 について話しを後ろに回したのには理由があります。実はタイトルから想像していたものと、内容がかなり違うったのです。実際に著者である鈴木信之氏(日経ビジネスの副編集長)が本の中にこう書いている。

  もしかして、ここ(220ページ)まで本書を読んでいただいた皆様はこの本を、多くの人に同窓会に行くことを推奨する啓発書の類だと思われていましたか。全くの誤解です。そんなことを言うわけがないでしょう

  と言うのだ。確かに私自身も、この本を少し読み始めたところで、オヤ、何か想像していたものと違うぞ、と思った。

  実は昨年、同窓会活動などに興味がない私が小学校の同窓会の仕事を手伝ったのです。私にとっては同窓会そのものに興味を持ったというよりは、50年近く開催されてこなかったクラス会の開催、同級生との再会に興味を持ったのです。しかし古い名簿を頼りに同級生に連絡を取るのは大変でした。それなのにがっかりさせられたのは、相手に返信はがきが届いているにもかかわらず(未配達で戻ってきていない)、単にはがきに○をつけるだけなのに返信がこなかったからでした。そんなことから、まあ、出たくないのだろうなと、その後の消息から推測しつつ納得することにした。

  1つの例は離婚。私が53歳でゴルフを始めた時、へたくそゴルフに付き合ってくれたのは離婚歴にある同窓生。彼女自身も言っていたが、離婚直後は外に出るのもイヤだった、と。つまり同窓会に出てくれる人は、そうした事情を終えていればこそ参加してくれたのだと嬉しく思った。

  また出たくない理由を推測してみたのは、親から引き継いだお店を持つ人。靴屋や豆腐屋を継いだ同級生がいるが、近くにスーパーが出来た頃を境に(彼のお店だけがということではなく)商店街全体の流れが減り、閉める店が増えてきたのだった。彼等のお店も、あくまでその中の1つ。それは個人の努力ではどうしようもなく、時代の流れ、社会の流れに個人としては逆らいようがなかった感じだった。

  ゆえに、そうした同窓会のお世話をしている時に眼にしたこの本の宣伝に、恐らくは私が感じていることとあまり違いはないはず、読むまでもない、と気にしなかった。



  同窓会が終わって1年たち、また現在のコロナ騒ぎ、外出するよりも自宅でAmazonのビデオを見たり、本を読んだりしている方が良さそうと、あらためてこの本「同窓会に行けない症候群」 (鈴木信之、著)をあらためて読んでみることにしたのです。この本によれば

  多くの人が同窓会に消極的になるきっかけになったと思われる事情を挙げると次の通りです。

@ 会社で出世しなかったから

A 起業して失敗したから

B 「好き」を仕事に出来なかったから

C 「仕事以外の何か」が見つからなかったから


  だという。別な言い方、によれば「承認欲求」が満たせなかったから、という。


  これって、とどのつまり「今」を問うているわけだが、「今」を意図的につくれないものだろうか。家内の父は事業を起こして成功した。ただし40歳前の話し。こんな具合にピークが早いタイミングで来てしまうと、あとは下るだけとなってしまう。下る途中に「同窓会の案内」が届いたとしたら、私であっても参加はしなかっただろうと思う。

  私が好まない言い方に「第二の人生」というのがある。言葉の意図は分からないではないが、シンプルに考えれば人生に第二などは無いと思っている。あるのは生きている「今」だけで、それ以外などあるはずはないのだと。そしてその「今」が満たされないと、過去がどうであれ現在の自分は満たされない存在となり、「昔は良かった」と過去にとらわれることになるからだ。

  これは単に収入だけのことを言っている訳ではない。私が定年後に始めた中古車輸出をどんなにがんばったとしても、定年まで勤めていた会社(外資系IT企業)から得た年俸レベルには届かない。では私の場合、何を持って「今を生きる」となるのか。それは自分が「自分の意思で前に向かっている」 という実感だと思っている。また、そうであるようにと日々行動してみている。



ホーム目 次 / 前ページ次ページ     
 

inserted by FC2 system