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230. 100年時代の人生戦略 PartIII (内気な子供だった時代)  ・・・  (2018/01/21)  

 こちらが原書、むろん日本でも手に入る。

 私って特別な人?自分ではまったくそうは思っていない。どちらかというと引っ込み思案な子供だった。

 30才代、虎ノ門にオフィスを持つ財団法人に勤めていた。ある日の午後、虎ノ門の交差点を(虎ノ門 金刀比羅宮を背にして)ノリタケビル側に渡ろうとしていた時、向こうから歩いてくる男性に気が付いた。小学校時代の同級生、Y君だった。彼も私に気がついて、お互い相手を指さし思わず「え〜」と声をあげた。
 お互い外出中ということもあり、ならばまずは喫茶店に入り、積もる話しをしよう、ということになった。彼は小学校の同級生の中でも優秀だった。

 1968年、彼は東京大学を受験したが残念ながら入学は叶わなかった。ならば翌年に再チャレンジと思ったが、ご存じのように1969年大学紛争の最中、東京大学は入学試験中止を余儀なくされた。彼は早稲田の法学部に入学した。卒業後は特許庁に採用された。後に、知り合った通産省の担当者から、Y君は特許庁の中でも有名な存在だったと聞いた。というのも、特許庁に入る人の多くが技術系学部を卒業した人材だった中で、彼が文系(法学部)出身だったからだそうだ。更に、当時日米特許紛争が多発した時代、彼は米国の法律事務所からの誘いを受け、特許庁を退職して渡米した。そんな経歴を持つ人材は特許庁でもめずらしかったようだ。

 さて、話しを戻して、小学校以来会っていなかった彼との再会。彼のその後は前述の通りだが、私も、大学卒業後就職した会社を辞めてアメリカに留学していたことなどを彼に話した。すると彼が思わず言った言葉は、「○○君はおとなしい子供だったのにねぇ」だった。そう私って目立たない子供だった。

 そんな性格は大学まで変わらなかった。大学を卒業して、ゼミの指導教授が経営コンサルタントをする会社に採用して貰った。半年の現場勤務の後、営業に配属された。それを聞いた大学時代の同級生はみな驚いた。いわく、「おまえのような人見知りをするヤツを営業に配属させるなんて、よほどその会社は人材難なんだなぁ」としみじみと言った。
 そう、当時の私は初対面の人と話をするのは苦手だった。親譲りで、酒がまったくダメで缶ビールは半分ほど飲んだだけで顔が真っ赤になり、心臓がバクバクした。こんな私が、父親が同郷ということのコネを使って、ある建築機械の会社社長を訪ねた。面接の結果、この分野の営業は建築関係の会社のトップたちにセールスしなければならず、時には一升瓶を下げて酒を酌み交わすくらいのことは出来なくてはいけない。それには私はあまりに線が細いという。あえなく不採用となった。

 振り返ってみて、何が私を変えたのか?ちなみに内弁慶の私のような子供が己を通す術は”頑なに自分の生き方を通すこと”だったのかもしれない。終身雇用があたり前の時代に「我が道を行く」を通し、マルチステージ・ライフとなったのも、この我儘とも思われる自分の通し方と無関係ではなかっただろう。そんな中で、ターニングポイントは留学だと思う。あの広いアメリカで、東洋の小さな国日本から来た留学生。自分から働きかけをしなければ、何も始まらない。そんな世界が私をリ・クリエーション(再創造)させたのだと思う。


 

<編集後記>
   週刊 東洋経済 2017年 7/22号で、「私はライフ・シフトをこう読んだ」の中に 孫 泰蔵 氏がコメントを寄せていた。彼いわく、「人間は行動もメンタルも環境に大きく左右される」があった。 自分を変えたかったら環境を大きく変えてみるのも1つの方法かもしれない。





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