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229. 100年時代の人生戦略 Part II(好きなことを仕事にするための準備 )  ・・・  (2018/01/14)  


 
 「THE 100-YEAR LIFE」は東洋経済から「100年時代の人生戦略」として日本語訳が出版されているが、同社の雑誌「週刊 東洋経済 2017年 7/22号 」でも、この本の特集を組んでいた。690円

 自分がやりたいこと、好きなことを仕事にしたかったなら、家族に不安定さを感じさせない工夫をしてからにしろ。これは先輩から言われたこと。彼、私と同じ職場で出会って以降もいろいろ仕事を変えていった。彼曰く、ある時は収入がアップし、ある時はダウンした。例えばクリスマス、昨年は盛大にクリスマスの飾り付けをし、子供たちに大きなプラゼントをしたとする。翌年、仕事が変わって年収がダウンしたとする。奥さんは納得してくれたとしても、子供たちにとっては、なぜ昨年のクリスマスのように大きなプレゼントが貰えないのか理解出来るはずもない。彼のいわんとすることはこれ。

 自分が好きなことをやりたいが故に転職したとする。そうしたいのならば、それなりの準備をしておけということ。具体的には、彼は年俸がアップした年はお金をストックしておく。次に年俸が目減りした年は、そのストックを取り崩して、とにかく奥さんには毎年一定額を渡すようにしていたという。


 40代後半、始めての外資系(IT関連)企業に転職した際、給与額がジャンプアップした。先輩の教えを思い出し、当時虎ノ門にあったシティバンクに銀行口座を開いた。奥さんには「毎月定額を渡すから心配するな」と伝え、その通りした。最初、かなり抵抗感があったようだが、あきらめたようだった。これも幸いなことに毎年年俸がアップしたからこそ無理なく出来たことと思っている。

 それで思い出したが以前仕事で知り合った人でドイツ生活が長かった女性のこと。ドイツ生活時代に付き合っていた人がいたようだが結局結婚することは無かった。考え方の不一致の一つに生活費の管理方法があったそうだ。彼女はヤマトナデシコゆえに、夫の収入をすべて預かって、日本の主婦のように家計簿を付け、すべてを管理したかったのだそうだ。しかし、ドイツでは夫が収入を管理し、奥さんにお手当(生活費+α)を渡すのが一般的のようだった。彼女はこのやり方は好きではなかったようだった。


 最初の外資系IT企業(開発はイスラエル、本社は米シリコンバレー)は、日本法人の立上直後からかかわった。当初イスラエル人二人でなんとかなると思ったようだが、片言の日本語しか出来ない二人では立ち上げははかばかしくなかったようだった。虎ノ門交差点にほど近い小さなビルの5階にオフィスを借りた。ワンフロアというと聞こえは良いか、多分社員数が5名を超えたら狭すぎると思われる広さだった。

 かつて米大学の授業で教授から褒められたことがあった。日本人の彼を見ろ、彼の学力は素晴らしい伸びを示している。それに比べアメリカ人学生の君たちはナンダ!といった褒め方だった。私にしてみれば、日本の大学に在学した時代に習ったことばかりで、特に学習内容がレベルアップした訳ではなく、単に英語で表現する力がアップしたに過ぎなかったので、面映ゆかった。

 同様に、このイスラエル企業でも、イスラエル人二人がやりたいことは推測出来た。あとは私の日本語力、営業経験でアクティベートしてあげれば良いだけだった。結果は短期間で出た。営業というタイトルではあっても必要なことは何でもやった。総務・人事的なところでは、社会保険の新規設立も自分でやった。結果、社長でもないのに私の保険証番号は1番だった(当初は社会保険、その後は東京都小型コンピュータ健保に切り替えた)。
 製品は、日本には競合製品すらないほど先進的なものだった。カタログはあっても英語版を翻訳者に日本語化して貰い貼りつけただけのものだった。とても相手に対して説得力を持つようなものではなかった。イスラエル人ボスの了解を得て、すべて作りなおした。前職時代からいろいろな付き合いがあったので、雑誌出版社の営業さんに来て貰い、広告を出す相談をした。その際のデザインもすべて自分でやった。

 立ち上げは、以前(国際交流の)財団法人でも経験していた。分野はまったく違っても、基本は同じ。やるべきことを見つけ、1つ1つ積み上げていくだけ。もともとイスラエル製の優れた製品であっただけに売上は倍々で伸びっていった。ボスが米国本社と話をつけてくれ、私もストックオプションを貰えることになった。米E*TRADEに口座を作ってくれた。
 後にこの会社がHP(ヒューレットパッカード)に買収されので、57才の時、持っていた株を売って、それを日本のシティーバンク口座に入金した(無論、日本の税金も払った)。運用とか利殖とかとは縁遠い私だったので、シティバンクのコンサルタントと相談し保険タイプの商品にドルのまま10年運用をお願いすることにした。10年後、67才で満期になったが意図せずして時代の波に乗れたのだろうか、ドル預金額は預けた時の1.5倍になっていた。その後、60才で世界的なデータベース企業の日本支社を定年退職したが、この会社、退職金規定がないもので退職金はなかった。その代わりになったのが、イスラエル企業日本支社時代に貰ったストックオプションによるドル預金だった。

 更に後日談がある。私が65才の時母が亡くなった。公正証書に基づき土地・建物を引き継いだ。姉妹から遺留分請求を受けた際、相続した土地を売って払う方法と、土地は売らずに手持ち資金で払う方法の2つがあった。生前、母は「お父さんが働いて残した形あるもの(土地)は、なんとか形のまま父さんの思い出とともに残して欲しい」と言い残していたのを覚えていた。イスラエル企業から貰ったストックオプションのお陰で、土地は売らずに姉妹に遺留分を現金で払うことが出来た。プラス、定年後も個人で事業を営んでいたので、多少の収入があったことも気分を楽にしてくれた。小さな事業であってもわずかな収入があれば、つまりウナギのタレと同じで少しづつでも足すことが出来ていれば、全体として目減りしていても心配の度会いは低くなるものだ。
 余談だが、大学の同期で神奈川県に住んでいる友人がいる。彼の場合、両親が亡くなって相続したは良いが、相続税代わりに土地で物納した。ふと気がつけば親の土地を大きく目減りさせてしまったことに愕然とし、鬱になってしまい、しばらく入院したようだ。どうやら人生のマサカ(上り坂、下り坂、マサカ)は、晩年に来るほどボディブローとして効いてくるようだ。


 あまり物欲はない方だと自分では思っている。男が金を持つと買いたがるのが車。私の自宅近所では、ベンツ、BMWはあたりまえ、流行っているのがポルシェのSUV。特に羨ましいと思ったことはない。国産小型車(マツダ・デミオ)には11年乗った(走行距離は10万Kを超えていた)。定年後、中古車輸出の仕事を始めたもので、自分でも始めて中古車を買って乗ってみた。更に3年後にはその車も処分し、最近流行りのカーシェアを利用するようにしている。身をもって「所有」から「使用」する、つまりシェアリングエコノミースタイルにシフトした訳だ。

 振り返ってみて、そこそこお金を使ったかな?と思うのは「旅行」と「ゴルフ」くらいだと思う。旅行も20万円以下のパック旅行(航空券、ホテル、現地送迎以外はフリーといったもの)、行き先はアジア、太平洋地域の海外ビーチリゾート(ゴルフも出来る場所 )ばかりだった。お金を貯めるコツは、使わないこと、だそうだが家内の理解もあって人生の楽しみは残しつつ、そこそこ節訳が出来た。


 


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