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175. (シニアの)居場所の社会学 ・・・ (2015/01/25)

  1月のある日の「日本経済新聞」に定年後問題が取り上げられていて、その中で阿部真大(あべ・まさひろ)さんという方がこんなことを書いていた。「昔なら承認欲求(周りから認められる満足感)は職場で満たされた。今は他に自分を承認してくれる場所が要る」と。

 私は定年後、いままでとはまったく畑違いの分野で個人事業を始めた。多くの人が定年を「終着駅」と考えている中で、なにゆえ定年後にも苦労して事業を始めたのかと言えば、つきつめていくとこの「自分を承認してくれる場所」を求めて来たことになる。そのことを「言葉」で言い表してくれていたことに、「そう、そうなんだよね」と嬉しかった。

 インターネットで調べてみたら大学で社会学を教えている方で「居場所の社会学」という本を出していた。早速ネットで注文して読んでみた。以下はその一節です。


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「人は老後を生きるのではない。今を生きるのだ!」と言うのだが、まったくその通りで、人の「老後」というのは、その名の通り平坦な「その後」などではなく、当人にしてみれば、まさしく「今」このときを生きている。
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 私自身は「第二の人生」という言葉が好きではない。「第二の人生」という言葉のニュアンスには、過去こそが人生のメインであり今は過去のオプションでしかない、という感じに聞こえるからだ。それではまるで動力を切り、終着駅までを「惰性」で走る電車のようなものに見える。未来など誰にも予測できない白いキャンバスなはず。未来は過去のオプションなどではないはずと思いだけは先へと走る。

 「現在」は一瞬にして「過去」になる宿命にあり「未来」が「現在」になる。つまり人間にとって「第二」の人生などはありはしない。あるのは常に「今の人生」しかない。また人生の記憶の多くはオペーク(不透過)状態。たとえば、どれだけ仲の良かった兄弟であったとしても、遺産の問題で骨肉の争いに至る話しは多い。そこで提起されるのは「塗りつぶされて」見えなくなった過去ではなく見えている「今」だけ。つまり人間の記憶はことわざの通りに「終わり良ければすべて良し」だし、反対に「今が悪いと、過去の栄光は何の意味もなくなってしまうこともある」。繰り返すが、問題なのは過去ではなく「今でしょ?」


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定年退職した途端、自分の役割を失い、世話される存在となるのをじっと待つ。高齢者のひきこもり、定年前と定年後の間のはしごがなく、ドスンと落っこちてしまった人が陥りやすい。その意味で、「社会が産んだ病」とも言える。
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 定年をむかえた人間は会社から「解雇」されます。本人がもう少し働き続けたいと考えたとしても、働き続けることはできません。会社を辞めるということは会社という「居場所」を失うこと。よほどの資産家でも無い限り人は次の「居場所」を探し始めるはず。しかし、私も経験がありますが、ハローワークで見つかる可能性はかなり低いといえます。それも、かなり条件を下げてもです。

 次の仕事が見つからないまま日が過ぎると、ますます億劫になるはずです。私は定年前、50代だった時、外資系企業を辞めて、次の職を得るまで半年無職だったことがあります。この時の経験からすると、朝ゆっくり寝ていられるのを幸せと感じるのは1週間程度でした。それを過ぎるとなんとなくうしろめたい気分になりました。ヒマつぶしにと仕事に関連する展示会に行ってみました。すると、今までは気が付かなかった人達が見えてきました。私同様やることのなさそうな人が、服装、歩く速度からして目にとまりました。恐らくは今の私と同じようなシニア(定年退職者)なのでしょう。そんな経験を50代でしていたもので、60歳で定年になっても同じ思いはすまい、体が元気なうちは働き続けるぞ、と決めたのです。


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はしごをかけることで得られる「老後の力」を社会の活用として積極的に活用していこう、ということも同時に示していきたい。また、それは「人口がつまっているのならば出口を開けてやればいい」というアイデアでもあり、究極的には職場の世代交代を推し進めるものである。
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 調べてみれば、現在のような長期雇用慣行の原型がつくられたのは大正末期から昭和初期にかけてだとされている。それ以前、特に第一次産業では、人は動けなくなるまで働くのはあたりまえだったのだ。ならば自分もそうしようと思う。

 私が定年で会社を辞めても働き続けたいと考えたのは、この本によれば「居場所」を求めていたからだという。私としてもこの本を読んでみて「そうだよね」という思いだった。一般的には会社を辞めた後に探す次の居場所は「(私を)雇ってくれるところ」となる。だが、従来あった肩書き、人脈、もしかしたら経験までもが、あたらしく雇われる場所では使えないかもしれない。つまり「場」は出来たとしてもそこが「居場所」になるとは限らない。

 居場所とは、客観的な状況がどうなっているかではなく、本人がそこを居場所と感じているかどうかによってしか測ることのできない、極めて主観的なもの。更にここで問題を複雑にするのがその人が求めているもの。以下は、人間の欲求を5段階の階層で説明したもの。もしその人が求めているものが「承認の欲求」であったり「自己実現」だったとすると、これはもう自分で何かを始めるしかないだろう。かくいう私のケース、気が付けばこれでした。

 20代半ば、アメリカ留学時代に考えたこと、「自分の人生は自分で作るしかないのだ」という帰結にいたるのは今も同じ。


 アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。

  1. 自己実現の欲求(Self-actualization)
  2. 承認(尊重)の欲求(Esteem)
  3. 所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
  4. 安全の欲求(Safety needs)
  5. 生理的欲求(Physiological needs)

 






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