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112.インターネット時代における「情報と行動のあり方」 ・・・ (2012/06/17)

 こちらは1995年のアエラ誌に紹介されたハルバースタム氏の写真。何年か前に交通事故で亡くなったと聞く。ちなみに右の文章はアエラ誌に掲載されたものではありません。

 最近、参加していたFaceboookの勉強会参加者の「情報と行動のあり方 」に違和感を感じた。もともとこの勉強会は、その分野で5年超の経験を持つある人が呼びかけたものだが、集まったのは、ほとんどが1年未満(数ヶ月未満)の人たち。ここで経験の裏づけの無い人たちが、情報を持ち寄って、これが正しい方向だとばかりに動きだしている。もとより主催者は、一人で経験を重ね、今の実績を持つに至っている。彼くらい実地の大切さが身にしみて感じている人はいないはず。しかるに、Facebookの中では、情報が一人歩きを始め、判断を伴わずに突き進んで行こうとしているように思えてならない。

 一部の人には、そんな説明もしてみたが私の言葉足らずもあって、伝えきれなかった。自分でもこの違和感を上手く説明出来なかったが、確か私の尊敬するジャーナリスト、デビッド・ハルバースタム(David Halberstam)氏がこのあたりを上手く説明していたはず、と古い資料を探してみた。そこにはこう書いてあった。




 「情報の速度陥穽」  (陥穽・かんせい=落とし穴)

 (前略)私はといえば年に10回以上もカリフォルニアを訪ね、広大なアメリカ大陸を6時間で横断する。空港でのわずか2時間の足止めも、気持ちをいらつかせる。ときおり普段の生活から離れるとき、私は通信手段の発達がことごとくプラスであるとは思えなくなる。我々は自らが処理できる以上の情報を、必要以上に速く送信しているかもしれないのだ。

 というのも情報の送受とそれを吸収し理解するのは、実のところ別ものだからである。もしも、この輝かしい世紀に陥穽(かんせい)があるとすれば、より一層の「早とちり」を犯すことである。事実とは判断を伴ってこそ理解できるもので、判断の伴わぬ事実は方向を指示してくれぬ路傍の標識にすぎない。情報の生き死には知恵による。知恵は経験に基づくもので、経験は失敗からしか得られない。世界中、アメリカ人であれ、日本人であれ、コンピュータで武装した若手の凄腕諸君には、この知恵が欠けている。



 

 つい最近の話だったかと思うが「食べログ」というサイトで情報の裏取引があり、評価も得ていない飲食店が高得点を得、そこに客が殺到した、という話しのようだった。私にしてみれば、美味しいかどうか分からないが、それも含めて経験と飛び込むしかないと思っている。たとえその店の料理が不味くても、そこへは二度と行かなければ良いだけの話し。しかるに、昨今の若者は、そうした経験を積むことも無駄と感じるらしい。せっかくお金を払うのだから絶対に美味しくなくては困る、というもののようだ。情報時代が作った我が侭世代としか思えない。



追伸; いつも人とは違う視点で物事を捉え、説明してくれる友人から、こんなメールが。

  老人は過去の経験情報を参照し、経験情報のない若年層は思索により補う。従い、情報の高速収集は若年層ほど歓迎すると思われる。これは速度の問題ではない、思索者の年齢、情報ストックの相違と思われる。

 なるほど〜。



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