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2010年4月13日  川上 義正さん  ・・・ ニュージーランドのゴルフ場巡りの旅(パート2)


 管理人さんから『「60歳の時はこうだったよね。だから、60歳代にはこうしておくといいよね」または、「50歳代では考えなかったようなことが、60歳になると、こうするのに、もしくは、こうした方が良い」といった発想が湧いてくる』とあった。あなた(川上さん)なら、どんな思いが浮かぶでしょうか、と問われたと解釈して一筆啓上。


「62歳で見つけた新たなテーマ」

 私は72歳(2010年)である。戴いたお題を我が身に当てはめ、私の60代を振り返ってみよう。40歳代半ばに脱サラをして機械部品加工の工場を営んでいた。ところが1999年当時、世の中は不景気であった。幸いなことに無借金であったことが未練なく工場をたたませる勇気を与えて呉れたのである。

 その前年も不景気であり、仕事がなく手持ち無沙汰であった。ここで1週間休んだところで、なんら業績に変化はあるまいと「オーストラリア東海岸3都市めぐり」と称するパックツアーに参加した。初めての海外旅行であった。ところが、お膳立て万端のパックツアーからは物足りなさを感じ、そして満たされない旅への消化不良が募ったのである。このことが私の旅心を奮い立たせる起爆剤となって、無職となってからの有り余る時間を2000年3月から始まるパース通いの旅に当てたのだ。



「西オーストラリア州のゴルフ場行脚」・・・あっという間の9年

 ゴルフ場めぐりの旅を始めた経緯と旅を続けた謂れを、「Golfing Westralia」の「はじめに」に、また訪れたゴルフ場があまりにもインド洋沿いに偏在する事象に懸念を抱き、好奇心から内陸部(Wheat Belt)に踏み込んで、新発見をしたことは「再販に当たって」(P128)に述べてあるのでここでは割愛する。

 とりわけ、私のゴルフ場めぐりの旅を続行させた決断は次の次第である。パースにあるコースを調べ上げたら30コースあった。1回目にして、30コース中の20コースを廻れたのだ。このときに考えたことは再訪してでも残り10コースを廻り終えて、パースのコースは残らず廻ったとすべきか、あるいは3分の2を廻ったのだから、これで良し、と妥協してゴルフ場めぐりの旅に終止符を打つか否かの選択であった。とどのつまり、パースの次はパースより南部に行こうであった。実際に南部に行き始めると、次は北部にも行こう、いっそ全域行ってしまえ、と行動範囲を西オーストラリア全域に広げてしまったことである。 
 


 原稿を書き進めていると、筋書きに合う写真が欠落していたり、印象が薄く原稿に窮したコースがあったのだ。それらの不足分を補うために再、再々とパース行きを繰り返しもした。結局、わき目も振らずに、足掛け9年もパース通いを続けたのだ。私の根底に流れている思いは「始めたからには為し遂げたい」である。達成感、満足感、充実感あるいは制覇感を味わってこそ、「遣り甲斐」を感じるからである。行きつくしたところで「Golfing Westralia」を上梓して、たっぷりと「遣り甲斐」を味わえたのだ。 



「夢に終わりはない」

 「Golfing Westralia」が1つの夢を叶えた。私は次ぎなる夢の舞台をニュージーランドに移して、「Golfing Westralia」のニュージーランド編へ向けての準備を進めている。2008年に北島を、2009年に南島を訪問し、ゴルフ場が400近くあるといわれるニュージーランドで、総計88コースを回り終えた。ニュージーランド編の完成までには3〜4年を要するだろう、と思う。

 しかし、私のこれまでの行いに反省点がある。それはガイドブックを書くことに主眼を置くあまり、「ゴルフ場」そのもののハードに集中しすぎた嫌いがあった。私が1人でプレーをしていると、寂しかろうと同情してくれたのか、度々同伴を誘われたのである。ゴルフは1人でするものではないと感じた。人々との係わりを持つプレーをしに、折を見て再訪しようと考えている。



「試練の闘病」

  かれこれ4〜5年前から旅をしている最中に、胸焼けがあったのだが一過性であったため、あまり意に介していなかった。帰国しては、薬を貰いに医者通いを続けていた。しかし一向に回復しないので、2ヶ月前に医師から血液検査を指示された。血糖値が上昇していることが判明し、関連するすい臓が疑われた。そして、超音波、CT、MRIなどの検査を経て、すい臓ガンの疑いが濃厚になったのである。

 2010年は仕事から足を洗い、パース通いを始めてから、ちょうど10年目にあたる。私の過去10年は、気ままに、我がままに、意のままに送った、悔いのない大満足の10年間であった。自由奔放に過ごしていた因果なのだろうか。2010年3月14日から、すい臓ガンの手術日を病室で寂しく、そして静かに待っている。

 私は過去が元気であったがゆえに、未来も元気であるはずだと思い込んでいた。そして次の様な先人の檄文に共鳴しつつ、我が夢や希望を追っていたのである。

 Where there is a will, there is a way. (意思のあるところに道あり)
 Where there is life, there is hope.(生きている限り希望を捨ててはいけない)
 「偉大な人は、機会がないと、こぼしたりは決してしない」(ラルフ・エマーソン)
 「成功したければ、ありきたりの道を行くのではなく、新しい道を切り開くべきだ」(ジョーン・ロックフェラー)である。

 とはいえ、現実に70歳代に乗ると、私もいずれは何かの病に冒されるであろうとは、消極的ながらも、考えなくも無かった。病の予告があればいいのだが、都合よくはありそうにもない。つまり病には人生の途中で遭遇するのだ。どうやら「本人の心がけだけでは、どうにもならない事柄」があるようだ。そして「我が意が及ばないところで、何かが決められ、何かが変動している」ようにも思われる。頭脳を持ちながら如何ともし難い人間は不敏な動物である。これを運命(Destiny)とでも言うのかなと思う。私はこれを素直に受け止め、それに委ねることにする。

 現実に病に陥ると、悔いを残さないようにと描いていた夢や希望が半ばで頓挫させられ、すべてが暗闇の気分にさせられる。夢や希望は命あっての、健康あっての物種であり、「いつまでも、続くと思うな、命と健康」を実感しつつある。私の健康は怪しくなったが命ある限り「夢と勇気と若干のお金」があるうちに夢を果たしておこうだ。



「私がやるべきことは」

 ところで、すい臓ガンとはどんな奴だろう。ネット検索からは質が悪く、進行の早い「ガンの王様」である、または「ガン中のガン」であると知った。3年以内に再発する可能性が極めて高く、第1ステージ(初期)で手術をしたとしても、5年生存率は30%とある。すなわち、あと5年生きられる確率は10人中の3人という、絶望的な数字なのだ。私はこの3人の仲間に入れるだろうか。入ったとしても私の10年先は生死不明だ。愕然とする。ぼけっと座っていると我知らず、涙がにじんでいた。はっと気付き、頭を振って幻想を払い飛ばすが、我が家の部屋を歩いているときにも、脳裏がニュートラル状態にあると、いつの間にか涙がにじんでくる。確かなはずの我が意識とは裏腹に、夢と希望を断たれた本能がそうさせるらしい。

ことの顛末を闘病記として書こうかなと思いながら、ウエブをサーフィンすると、既に詳細なデータをつけた読み応えのある闘病記があるは、あるは。私がその中に割り込んで綴るにはそれ相応のエネルギが必要に思えた。同じ労力を費やすのなら、私はそのエネルギを、5年生存率30%を糧に「Golfing  New Zealand」(仮称)の完成に傾注することにする。これが我が人生の置き土産にでもなるのかな、とそんな思いにさせられるのだ。 



 


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