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2009年12月06日  Yoshiさん  ・・・ ゴルフ天国パース(オーストラリア)          



こちらYoshiさんのブログ「ゴルフ天国パース」、この画面から
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    <管理人> こちらのページにも紹介していますが、11月24日〜12月1日までオーストラリア西海岸、パースに行ってきました。

  事前にコンタクトを取り、現地にお住まいのYoshiさんとお会いし、お話しを聞かせていただくことが出来ました。それも、Yoshiさんがメンバーになっているワナルー・ゴルフ・クラブでゴルフをご一緒して貰いながらでした。

  当日は、いつになく空いていたようで、ほぼ二人でコースを貸し切ったように、オーストラリアの澄んだ青空の下、のんびりとゴルフと会話を楽しみながらのラウンドでした。 



<管理人> 始めに、オーストラリア移住に至った経緯を教えていただけますか?

<Yoshiさん> まずはゴルフのお話しからしましょう。私がゴルフを始めたのは30歳の時。当時は埼玉に、その後、千葉へ引っ越しましたが、いずれもゴルフをするには近隣にコースも多数あり、恵まれた環境でした。仕事的にもゴルフでのつきあいもあり、ハンディも10まで行っていました。

 次に仕事ですが、大手電機会社で空調設備機器のセールスエンジニアとして活躍してきました。毎晩遅くに帰宅するような毎日でしたが、とても充実していました。ここで、仕事人間として完全燃焼していたことが、世間一般よりは早く(48歳で)定年退職して次の世界に移ることの決意を促したように思っています。



<管理人> 一般に、海外への長期滞在、まして海外移住となると、在職中に「海外駐在」を経験されていた方とか、海外との「渉外部門」にいらした方が多いようですが、Yoshiさんの場合はどうだったのですか?

<Yoshiさん> 私は、そのいずれでもありません。私がオーストラリア移住を考えた時、同僚、友人たちには「英語も話せないのに海外移住だなんて、何を考えているんだ」と言われました(笑)

<管理人> それがまた、どうして海外へ出よう、と思ったのですか?

<Yoshiさん> 私が定年を迎える前、当時は日本も好景気で、お付き合い先の会社の社長さんと台湾、香港、ハワイ、グアムなどに旅行をしました。その時の経験(いわば添乗員のようなことをした経験)から、言葉が出来なくてもなんとかなる、との印象を持ちました。

 そんな海外旅行を通じて、いつか私も「国際人」になりたい、という思いが生まれました。



<管理人> 先日、東京、お台場で開催された「海外ロングステイ・国内デュアルライフ フェア2009」というものに行ってきました。聞いている範囲では、日本の方が海外に出るという場合でも、そのほとんどはあくまで「ロングステイ」であって、「海外へ移住」してしまう、というケースはあまりない、と聞きました。Yoshiさんの場合はどうなのですか?

<Yoshiさん> 思い立った当時、会社には25年勤務し、年金が貰える年になりました。また、バブル絶頂期で購入した自宅、株、ゴルフ会員権などがすべて資産価値を増していました。まずは資金的な背景が揃いつつあったということがあります。

 次ぎに、どこへ行くのかということですが、仕事では台湾の会社とお付き合いがありましたので、まずは家族を連れて旅行をしてみました。そこから始まって、アメリカ合衆国ではハワイ、グアム、ロサンジェルスを。東南アジアだと、タイ、シンガポールへも行きました。いずれも、環境の問題であったり、治安の問題であったり、もしくは日本人が多すぎる、などの理由で除外していきました。



<管理人> 現在、こうしてパースに移住されていらっしゃる訳ですが、オーストラリアですと、ゴルファーにはゴールドコースト、ケアンズが人気のようですが、それを含め、シドニーなどは検討されなかったのですか?

<Yoshiさん> 勿論、それらも検討しました。でもパースに比べると、あまりに都会過ぎるとか、あまりにも日本人が多すぎるとかで除外しました。最終的な決め手は、ちょっとした、面白い出会いがあってのことでした。1988年、池袋の居酒屋で飲んでいて、オーストラリアから日本に来て、英語学校の講師をしているティムさんと出会いました。彼がパース出身で、「パースは良いぞ〜」というので心が動いた訳です。(笑)

 プラス、パースの住宅購入費用が、シドニーの半分程度だったというのも決め手となりました。




<管理人> シニアの退職者向けのビザ、リタイヤメント・ビザというのは私が10年ほど通った南の島、フィジーにもありました。基本は、ある一定額の資産を、その国に移転すればOK,といった内容だったと記憶しています。パーマネント・ビザ(永住)の場合はどうやって取得されたのですか?

<Yoshiさん> 当時(今は条件が変わっている)、オーストラリアでは人口を増やすこと、それにともなって産業を増やすことを計画していました。そこで、事業者、つまり現地で事業を始め、現地のオーストラリア人に雇用機会を作ってくれるような人を積極的に受け入れてくれていました。1億円の資金と事業計画を出すことで、パーマネント(永住)ビザを出してくてたのです。

 有り難いことに、前述のように、当時の日本はバブルのまっただ中、お陰で持っている資産価値が上がっていて、なんとか資金作りをすることが出来た訳です。



<管理人> そこから具体的に移住に至るお話しを聞かせていただけますか?

<Yoshiさん> まずは当時高校生だった娘二人を連れてパースに来ました。二人とも気に入ってくれました。次ぎに、何か事業をしなくてはならないので、ある人の紹介で、日本食レストランをやろうという人に出資することにしました。詳細は省きますが、このレストラン事業はもともと自分がやりたいと思っていたことでなかったこともあり、また信頼していた人に裏切られるなどがあり、失敗、撤退しました。



<管理人> やはりご苦労があった訳ですね。あと、言葉の問題はどうされたのですか?

<Yoshiさん> 実際に移住したのが1991年2月です。その後の事業の失敗は、良い勉強になったと思っています。さて、言葉の問題は、永住ビザのお陰で、無料で英語学校に通わせて貰えました。この年(当時50歳)になって、夫婦二人で机を並べての勉強は、大変でしたが、楽しいものでした。

 学校には通算10年通いました。10年通う必要があった、というよりは、いろいろな国の人と知り合えるとても良い場なので、ずっとキープしておきたかった、ということです。お陰でいろいろな国の人(中国、香港、タイ、韓国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ギリシャ、イタリア、スペイン、エジプト、ドイツといった具合に)主だった人だけでも、これだけあります。これは、私の思い、国際人になりたい、という希望に合致しました。



<管理人> (インタビューをしたのはゴルフ場だったもので、傍を通るメンバーさん達が、皆さん「ハ〜イ、YOSHI」と声をかけてくれていました)。 かなりこのゴルフ場メンバーとしても溶け込んでいらっしゃるようですね?

  ・・ 当日の様子はYoshiさんのブログにも紹介されています

<Yoshiさん> 私がここのゴルフクラブのメンバーになって以降、8人の日本人がいますが、積極的にコンペにまで参加しているのは、私だけかもしれませんね。今は、皆が私に声をかけてくれるようになりましたが、最初は、言葉(英語)が出来ないもので大変でした。まずは、同じ組になった人たちの名前を覚えることから始めました。

 またホームパーティーをやったりもし、交流を深める努力もしてきました。結果、皆がこうして声をかけてくれるようになったのです。



<管理人> 最後に、もしこれをご覧になっている方で、よし、「自分も海外移住をするぞ」と思われた方がいたとしたら、どんなアドバイスをされますか? 

<Yoshiさん> もしゴルフ中心の生活を考えるのであれば、オーストラリア、パースを含め、ゴルフ環境は日本よりずっといいです。ちなみに、私の場合、会員になっていますので、あとは年間20万円程度負担すれば、1回ごとの費用は払う必要がありません。であればこそ、週に3回もゴルフが出来るのです。更にこのワナルー・ゴルフ・クラブには、提携コース(オーストラリア内、外に)がいくつもあり、そこでもメンバーとして扱ってくれるのです。まさに、ゴルフ天国  と言えるでしょう。


 あと、ここが一番大事なことなのですが、海外移住されるにあたっては、奥様の理解と協力がとても大切です。こちらへ来て、家内の協力にはとても感謝しています。また、私の希望で移住してきたわけですが、私以外にここオーストラリアに知り合いのいない家内にとって頼りは私だけですから、その意味でも大切にしてあげなくてはいけないと思っています。まあ、のろけになりますが、あのままずっと日本にいたら家内の有り難さは、こうまで分からなかったかもしれませんね。



<管理人> とても良いお話しを有り難うございます。では、最後に、今後のご予定を聞かせていただけますか?

<Yoshiさん> ちょっとゴルフをがんばりすぎて、膝の軟骨を痛めています。現在は治療を兼ねて、水泳をやっています。娘二人もそれぞれ結婚して、比較的近くにいてくれますので、安心です。家内とは、近くの海に行って、あわびやサザエを捕ったりして、楽しく暮らしています。

 我々夫婦は、パースに骨を埋めるつもりでいますので、葬式に参列してくれる親しい友達を持つためにも、オーストラリア人を始めとした人たちと、今後とも良好な関係を築いていきたいですね。





<管理人> インタビューを終えて。 (実際のインタビューは11月30日にゴルフ場にて行われました)

 私も30歳代に国際交流の仕事をし、海外からの研究者のお世話をしてきましたが、そこから学んだことは、人間って肌の色や髪の毛の色は違っても、根本のところは同じなんだ、ということでした。我々日本人が、嬉しいと思うこと、悲しいと思うことは、どこの国の人でも同様に感じますから。

 今回、Yoshiさんのお話しをお聞きして感じたのは、なんとも強運の持ち主だなぁ〜ということ。日本がバブルの時代に、資産価値の上がったそれを持ってオーストラリアに移住。そして、オーストラリアに来てみれば、こちらもその後、好景気となって、パースに購入された土地、家屋がまた値上がり。

 永住ビザにしても、今から事業者ビザを申請しようとしても、以前1億円でよかった準備金も、今は2億円が必要なのだとか。また、Yoshiさんの時は英語が出来なくてもOKだったようですが、今は、英語が話せないとビザは下りないようですから、まさにタイミングが良かったのですね。

 ご当人もおっしゃっていましたが、そんな長期の世界経済の予測など出来るはずもなく、ただ、ただ運が良かった、と。

 しかし私が思うに、神様は「運」を均等に配分してくださっているのだと。一番肝心なのは、自分に「運」が回って来た時に、その流れに乗れるか、乗れる体制を日頃から作っていたのかどうかでしょう。まさに、Yoshiさんは、自分の意思で、その運を手繰り寄せた感じですね。

 インタビューの終わりに奥様のことを少し聞かせていただきましたが、1942年生まれのYoshiさんですから、「愛してる」なんて言葉は照れてしまって口に出して言えないのだろうと思いますが、奥様への深い愛情、そして娘さんたちへの愛情を感じぜずにはいられませんでした。

 余談ですが、お付き合いでゴルフを始めた奥様は、このワナルー・ゴルフ・クラブのコンペ、女性部門ではいつも上位にいる腕前になったのだとか。いいですね、こうしたご夫婦って。

 長時間のインタビューにお付き合いいただいたYoshiさんにはとても感謝しています。また、ここでお聞きした話はとても印象深いものでした。有り難うございました。


 

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