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293. 創業、その気になった時が「旬」なのかも?  ・・・ (2020/01/01)


 定年になった2010年、私は創業を決意した。しかしそもそも起業家マインドなど私は持ってこなかった。

 40代、パソコン黎明期ゆえベンチャー起業家の多い世界だった。そのコンピュータソフトの世界の業界団体で仕事をしていたもので、周りには最近事業を起こし社長を務めている人が多数いた。その人達と話しをしていると、「○○さん、パソコンの世界にとても詳しいのだから自身でも起業しては?」と言われることが多かった。しかし自分で事業(会社)を起こすことにまったく興味を示すことはなかった。

 47才で初めて外資系企業、それも立ち上げ直後の外資系ソフト会社に転職した。3年間、しゃにむに走り、4人でスタートした会社も20人の規模になった。そのタイミングでボスのイスラエル人が、アメリカ、シリコンバレーの本社に帰任することになったことで、自分はどうしようか考え始めていた(忠臣は二君に仕えず?)。そんな私の気持ちを見透かしたかのようにイギリス系ソフト会社の日本法人社長からお声がかかった。従来やっていた仕事とは違う分野で、20人弱のグループのマネジメントも含めて全体をやらせて貰えるとの提案が魅力で転職を決めた。しかし、外資系の宿命とでもいうのだろうか、半年もたたないところでアメリカ本社で3部門が統合され、自分が担当した部門が無くなった。

 再び声がかかった。今度は以前から存じ上げていた日本のコンピュータソフト会社だった。社長はこの時既に60才半ばを過ぎていたので、今の会社は後身に譲って、自分はまったく別なことをしたいと思っていたようだった。そこで私に期待をしてくれ、何か新しいビジネスを始めてはどうだろうかとアドバイスしてくれた。その方の会社が私のデスク、パソコン、名刺を用意してくれ、新規事業のアイデアを練らせてくれた。しかし3か月後に出した結論は、「自分でやりたい事業が見つからなかった」だった。こんな具合に、こうした好条件下においても、私に起業の意思は沸いてこなかった人間だったのだ。

 60才定年になって初めてハローワークに通った。実は私は何度も転職をしてきたが、1度の例外を除けば常に次が決まってから転職していたので、失業保険を貰ったことが無かったのだ。まずは品川駅港南口にあるハローワークに通い始めた。失業給付を貰いながらやったことは2つ。1つは、まだ一度も行ったことのないアフリカ大陸へ行くこと。もう1つは、再度就職先を探すことだった。

 人生初の「アフリカ旅行」に私は大いなるカルチャーショックを受けた。昭和25年生まれの私には、まるで映画「3丁目の夕日」を目の前で見ているような懐かしさだったのだ。

 もう1つは、ハローワークに失業保険給付を受け取りに行きながら、備え付けのパソコンで職探しをしてみた。私より一足先に定年を迎えハローワーク通いと求職活動をしていた中学時代の同級生から聞いていたのは、ハローワークの求人表を見て応募してみても、返事が来るのはマシな方で、その返事すらこないケースがほとんど、とのことだった。実際、自分でも試しに履歴書を送ったケースでも、やはり返事は何もなかった。

 さて、起業家マインドなどまったくなかった私も、ここへ来てようやく”自分でヤルしかない”と思い始めた。60才になっても、何か仕事は続ける気でいた私に対し、雇いたいと言ってくれる企業がどこにもないことが分かったからだ。そんな時、アフリカ旅行した時に、見聞きしたことが頭に蘇ってきた。それが中古車の輸出ビジネスだった。半年に渡りいろいろ調べた中から、輸出ビジネスを支援してくれる会社に個人事業者として加盟することを決めた。これが私の起業に至るステップだった。

 いかがですか、私ほど起業など興味を持たずに来た人間が起業したケースも珍しいのではないでしょうか?一般的には、若い頃から「自分は社長になるのだ」といった大志をいだく人達の中で、ギリギリまで起業は私の選択肢になかったのですから。
 そんな気持ちは私がつけた事業の「屋号」にも表れていました。ローガンモーター、つまり老眼モーターとしたのですから。これは万が一失敗しても、「ああ、あれは半分冗談で始めたものなんですよ」と逃げを打てるよう最初から考えて訳です。笑ってしまいますよね。

 しかし、そんな感じで始めた事業でしたが、なんと10年も続けてしまいました。しかもその10年の間も必ずしも平たんな道だった訳ではなく、2度の大きな浮き沈みを経験しました。この仕事を始めた当時名刺交換をした人はゆうに30人を超えましたが、私の知る限りでは一人を除けばすべて撤退しています。ならば何故、私だけ続けてこられたのかと言えば(60才前の勤め人時代もそうであったが)作ってきた人脈のお陰からでした。また、個人事業ながら、一人の経営者としてやっていることが、大変ではありましたがとても楽しく、かつ勉強になったからに他ならなかったからでした。

 振り返ってみて、創業初期に出会ったのが、東京都の外郭団体、東京しごとセンターが主催する「創業寺子屋塾」でした。この受講以前に、アフリカ向けに中古車輸出をすることは決めていたが、細かな部分で事業の詳細を詰めておかなければならなかった部分をこのセミナーで補足した。
 さらに他の公的機関で受けられる、講座、セミナー、相談会などは積極的に利用した。居住する区(東京港区)が開催していた会計ソフトのパソコンによる講習。東京都中小企業振興公社が開催していた貿易実務講座、貿易に必要と思われる英語講座にも参加した。また事業を始めて以降も、経理処理方法の個別相談会などは何度も利用させて貰った。つまり目の前に現れた勉強の機会はことごとく利用した。


 振り返ってこの10年で私に創業寺子屋塾をコーディネートする相談員の方くらい、私に影響を与えてくれた人はいなかったかもしれない。折に触れ、私は仕事の現状を報告に行った。不思議なもので、相談員の方が質問してくることに対して説明をしていると何故か次のアイデアが私の中に沸いてくるのだった。
 また、振り返ってみると、2年おきに頼まれたこの創業寺子屋塾での「創業事例の紹介」が私を大きくドライブしてくれたと感じている。というのも、2年の間に何か結果を出していないと、相談員の方に報告するネタがない。こうして、再び「創業事例紹介」を頼まれるくらいの何かを過去1〜2年の間に自分で作れたのかどうか、常に通信簿よろしく結果を求められている気がしたのだった。


 今年(2020年)も2月19日(水)に創業寺子屋塾で、創業事例紹介を頼まれた。70才の誕生日(2月初旬)を迎えた直後での講師のお役目。もしかしたらこれが最後になるかもしれないので、今までの集大成としてのお話しが出来るようにしたいと準備をはじめている。


 


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