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264. 「未見の我(みけんのわれ)」 ・・・  (2019/01/13)  


 私が始めてこの「未見の我」という言葉を聞いたのは、30年くらい前に同時通訳の草分け、國弘正雄さんの講演ででした。確か学生さんが「自分はこれからどの道を行けば良いのか迷うのですが」といった質問に対する答えとしてだったかと思います。國弘さんいわく、自分はある程度の年になったのでこの仕事(当時は同時通訳者、また後身の指導にあたる立場)しかないので迷わないが、皆さんのように若い世代は自分に何が出来て何が出来ないのかが分からない。言葉を変えれば、まだ見えていない未開拓の自分があることは素晴らしいことなのです、と説明したのでした。

 考えてみれば、こんなふうに、皆さん一番知りたいのは自分のことかもしれませんね。銀座の母、池袋の母といった占い師がおられるのだそうですが、皆さんそういった方たちのところへ行き、聞くのは「私って今後どうなるのでしょうか?」ということ。皆さん、案外自分のことって分かっているようで分かっていないものなのですね。かく言う私も同様でした。


●30代に感じていたこと。

 米国留学から帰国して最初は語学学校で、その後は大学の国際交流部署で働いていました。その時代、ここには1年先輩がいました。世の中には才能溢れる人が沢山いますが、彼もその一人。海外(欧州)生活が長かったこともあり、私には思いつきそうにない素晴らしい発想、知識、感性を持っていました。そうした人と互して仕事をするコツは自分の好きな分野を見つけることだと思いましたね。好きなことならばいくらその習得に時間をかけたとしても苦にならない。そしてある時気がつくはず、その分野でなら誰にも負けない知識を持てていることが。私の場合は、それがパソコン分野(パソコンソフトおよび関連企業の動向について)でした。


●40歳、胆石の手術で入院し、考えたこと。

 パソコンソフトの分野でのキャリアがない私がいきないソフト会社に入ることなど出来ないでしょうから、まずは某大学を辞め、パソコンソフトウェア関連の社団法人に転職しました。協会に転職してみると私ほどパソコンに詳しい人は誰もいませんでした。1つの興味をずっと維持していたおかげで得たポジションでした。

 入ってみたものの、この協会の専務理事という人はとてもいい加減な人、半年間辛抱したものの、これ以上ムダな時間を過ごしたくないと辞表を出しました。しかし「別な団体を1つ任せるから、また干渉しないから」と慰留されました。1つの団体を自分の好きなように運営させて貰えるならと引き受けましたが、あてがわれた別団体は、これまた前任者のいい加減さもあり、100社でスタートしたものの(私が担当した時は)70社にまで縮小していました。立て直しは、まるで一旦落ちかけたバーベルを持ち上げるような苦労でしたが、ちょっと変人ぽい(?)アシスタント男性としっかり者の派遣の女性と3人で100社超まで復活させることが出来ました。
 自分でもこの結果に納得したところで、東京にオフィスを開設したばかりのイスラエルIT企業から声がかかりそこに転職。ここから定年までの10数年は外資系IT企業数社の東京事務所の立ちあげ、もしくは立て直しを担当してきました。


●定年後自分で起業して気が付いたこと。

 私はエンジニアであった訳でもないので、特に誇れる技術・知識を持っている訳でもありません。どうせやるなら今までとは違う世界の仕事をしてみたいと思いました。行動から入るのが私のパターン、定年直後、まずアフリカ(ガーナ)に旅行しました。たまたまアメリカ留学時代に仲の良かった友達がいたもので思いついたことでした。詳しくは「こちら」を読んで貰うとして、ここで得たヒントから帰国後スタートした中古車輸出というビジネスに辿りつきました。

 (なにせそれまでは外資系IT企業でセールスをしていたのですから)最初の2年は、全く経験の無いビジネス領域だったこと、更に翌年の東北大震災の影響もあり(放射能汚染が疑われる車は輸出出来ない)、とても大変な経験をしました。もっとも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるように、この当時やっていたことを今は懐かしく思っています。
 例えば都心から1時間かけて埼玉県にある中古車オークション会場に行き、まずは買い付けする車を見て周り、それを競りで落札する。落札出来たらアフリカ向け中古車輸出サイトに掲載する写真を1台につき30枚程度撮影。それにはまず、雑巾持参で駐車場を歩き周り、買い付けした車を軽く清掃し、そして写真撮影。1回のオークションで最高7台買い付けた時などは、皆さん帰ってしまってがらんとした会場で日が落ちるまで一人でもくもくと作業を続け、事務所の人に「まだいたんだですか?」と感心させられたほどでした。

   池袋から1時間かけて埼玉のある駅まで行く。そこからタクシーで15分ほどで会場に着くのですが、このオークションの良かったのは、このタクシー代を負担してくれること。
 当時は穴場的存在のオークションでした(今はオークションネットの相互接続のお陰で、どこからでも出物の買い付けが出来てしまいますが)。アフリカ向けの低価格車、多分出品者は(多少高値で売れると思っていても)あえて陸送費をかけてまで都心に運ぼうとは思わなかったのでしょう。そうし出物が駐車場に並んでいました。

 下の写真のように、ウガンダから来日したバイヤーさんを連れてこの会場に行ったこともありました。
 



 それまでの私は「誰か優秀な人がいたらその人についていくのが自分に向く生き方だ」とずっと思っていました。しかし定年後にこうした仕事を通じて感じたのは、私のような人間は、やはり自分でやりたいと思えることを探し、それを思いっきりやってみること。そうすれば、それまで自分で気が付いていなかった「別な自分」が見つけられるのだ、ということでした。つまり、自我の強い私には、全部が自分の責任と受け止めない限り、納得行く仕事は出来なかったのですね。

 まもなく69才になろうという私、気がつくのが遅い!でしょ(笑)。でも、もし人生が100歳まで、と考えるなら十分有効ですよね。これが定年後、自分で起業してみて分かった「未見の我」でした。




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