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260. 己の「意思」を持つことが人間としてのアイデンティティーなのか ・・・  (2018/12/02)  


 確か山形にある栗子国際スキー場だったかと思います。当時(まだ学生だった頃)通っていた英語学校を運営していたキリスト教の教会主催にスキー旅行に行った時のことでした。キリスト教の教会主催だからといって特に布教といった感じはありませんでした。唯一あったのは夕食前のお祈りの時間くらいでした。若い牧師さん(カソリックなら神父さん?)とは一緒にスキーを楽しんだり、行き帰りのバスで席が隣だったもので、いろいろなお話しをしました。そんな中、ふと私が1つ意地悪な質問をしてみました。

私:神は全知全能なんでしょ?

牧師:そうです。

私:ならば、アダムとイブが蛇にそそのかされて禁止されている果物の実を食べる前に何故止めなかったのですか?止められるのにも関わらず、食べたことをお怒りになってエデンの園を追放したのですか?それって陰険ともとれますよね。

牧師:(一瞬間をおいて)確かに神は全知全能ですが、神は人間と他の動物とは作り分けました。動物は神が作った自然の摂理に基づいて生活します。たとえば春に子供を産んで夏にかけて大きく育て、来るべき厳しい冬を超えられるようなります。かたや人間はそうした自然の流れとは関係なく、自分たちで考えすべてをコントロール出来ます。そうした人間にだけ与えられた「意思」を誤った方向に使ってしまったことから罰せられたのです。

私:つまり人間と動物の違いは神の作った世界の流れとは関係ない「自分の意思」を持つかどうか、ですか?
 (30年も前の記憶ですので、あいまいではありますが、たしかそんな説明だったと記憶しています)

 当時テレビで流れていたコマーシャルを思い出した。開高健が作ったサントリーウィスキーのコマーシャル。屋外で、たき火を前にした開高健がウィスキーグラスを傾け発した言葉、「男は自分だけのストーリーをグラスの中に描ける」と。

 そうか、己の意思を持って行動することが大事なのだ。
 

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 先日、NHKで放映した終末医療の問題についての番組を見た。親の最後にあたり、どこまで延命したら良いのだろう。子供は葛藤する。医師が親の延命を続けたいのか子供に聞いてくる。決心した子供は延命を止めるよう医師に伝える。ほどなく親は息を引き取る。こうした状況において子供は、あれでよかったのだろうかとずっと悩むことになる。

 かくいう私もそんなだった。95歳だった母は、ある晩、夜中に苦しがった。救急車を呼んで近くの大きな病院に運んで貰った。大動脈解離、心臓に繋がる太い血管壁、内側と外側とが剥がれてくる状態、いつパンクしてもおかしくない状態だった。若い患者さんなら即、手術となるが95歳では手術そのものに耐えられないだろうと医師は言う。

 翌日、なんとか山を超えた母、私が見舞いに行くと声こそ発しないものの私の顔をきちんと認識してくれていた。私が「退院したら大福が良い?どらやきが良い?」と聞くと手をたたくような真似をして私に喜びの意思を伝えてきた。とにかく家に帰りたかったようだ。
 私はおめでた人間なのだろうか。病院に連れて来さえすれば元気にして貰えると思っていた。しかし、症状は徐々に悪くなっていく。どんどん意思表示が出来なくなってくる。うつろな目をして、私の顔が分かっているのやら、分からないのやら。しまいには苦しそうな息を続けるだけで見ていてもかわいそうになる。

 1週間待ってみても好転する可能性はゼロと伝えられるが、そうは言っても心臓は動いているではないか。もう1度母を自宅に連れて帰ってあげられるようにならないかと期待する。そうこうしているうちに更に一週間がたった。さすがに私も観念した。医師に「とにかく苦しませないであげて欲しい」と伝えた。医師は分かりましたとモルヒネの点滴を看護師に指示する。翌日看護師さんから電話があった。「間もなくかもしれません」と。

 午前中はずっと枕元に付き添っていた。苦しそうなあらい呼吸だけが続く。持参したiPhoneで童謡を流し母の耳にイヤホンをあてる。聞こえているのだろうか。午前中はなんとかもっていたので、一旦自宅に戻ろうかと思ったがそのまま病室にいた。午後になって、スコンと呼吸が止まった。大動脈解離と聞いていたので心臓が先止まるのかと思っていたが、止まったのは呼吸だった。握っていた手はまだ暖かだった。


 あれでよかったのだろうか、、、。葬式が終わってもまだ自問していた。苦しいと言ったあの日、あのまま病院などに行かず見守っていれば、あんなに長く病院で苦しい時間を送らなくても済んだのかも。しかし、苦しんでいる母を見てなんとかして欲しいと思うのは人情。救急車に来て貰って病院に運んで貰った。やはり、あの場の判断としては、あれしか(方法は)なかったのだと思う。


 今度来るのは私自身のこと(もしくは最愛の妻の場合)となる。さてどうしようか?思い出したのは栗子国際スキー場で牧師とやりとりしたあの話しだった。子供に伝えることは、もし私が自分の「意思」を伝えられる状態ではなくなった際には、更に言えば、回復してもう一度「意思」を表現出来る状態に戻る可能性が無いのであれば、たとえ心臓が動いていたとしても、延命はそこで止めるように、と。





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