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257. 人間すべからく状況の被害者(?) ・・・  (2018/10/28)  


120日

 たまたま図書館で借りた本が村木さんの「あきらめない」だった。読んでいるうちに相手側はどう思っているのだろうかと気になり、この本「勾留120日」を借りてみた。
 読み始めて最初にひっかかった言葉がこれ。「平成22年、無罪判決という”最悪の結果”となった」だ。村木さんからすればついに自分の無実が証明された最良ことが、検察側の責任者である大坪氏にとっては最悪だという。本来なら、自分達が冤罪を生まなくて済んだことを喜ぶべきなのだろうがそうではなかったようだ。
 以前読んだ堺屋太一氏の本の中で、真面目な役人ほど陥りやすい過ちとして紹介されていたが、仕事熱心なあまりに自分が信じる目的こそが正しいこととし、それ以外を無視どころか潰しにかかることがあると。
 この本は、大坪氏が自分に降りかかった不幸を綴ったもの、という印象だった。しかしそれはかつて彼自身が被疑者に与えたことそのものだったのだが分かっていないようだ。
 
164日

 1955年高知県生まれというから私より5才下。大学卒業後、労働省(現・厚生労働省)入省。女性や障害者政策などを担当されてきた。2009年、障害者郵便制度悪用事件で逮捕され、無実を訴えるが164日間も勾留された。2010年に無罪が確定し復職。13年、厚生労働事務次官。15年、退官。その後は伊藤忠商事社外取締役、津田塾大学客員教授をされたそうです。

 本を読んでみて一番感心したのは、同期生のご主人、そして二人の娘さんとの絆の強さ、その絆の中核を成したのは、村木厚子さの家族愛だと感じる。
 この方の勾留期間中の様子を読んで感じたのは、とても「たおやか」だったこと。大坪氏が勾留でオタオタしたのとは正反対。私も何か自分の身におきたときは村木さんを見習いたいと思う。
   
 2年6カ月

 子供の頃から、「皆がこうしているのだから」とか、「昔からこうやっているのだから」、という言葉に敏感に反応したようですね。
 このままじゃダメじゃないか、ということで突っ走ってきたところ「あなたのやってきた○○はXXの法律に違反する」と逮捕されたということ。
 私とはまったく違うタイプの人ですが、1冊読んだらますます興味がわいてきて、何冊も読んでしまいました。
   
 3年超

 安田さん、ようやく日本に帰国出来たわけですが、彼はジャーナリストですので、いずれ彼自身の言葉で3年間の人質日数の内容が語られと思います。今はそれを待ちたいと思います。
   
 50年超
 桜の咲き乱れる公園に面したどら焼き屋、『どら春』で過去を背負う千太郎は雇われ店長を続け日々どら焼きを焼いていた。ある日この店を徳江という手の不自由な老婆が訪れバイトに雇ってくれと千太郎に懇願する。彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めた彼はその味の佳さに驚き徳江を雇うことにした。徳江のあんを使ったどら焼きは評判になり、大勢の客が店に詰めかけるようになる。 
 だが店のオーナーは、徳江がかつて
ハンセン病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。噂が広まったためか客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は店を辞めた。千太郎はハンセン病感染者を隔離する施設に向かう。そこにいた徳江は、淡々と自分も自由に生きたかった、との思いを語るのだった。(ウィキペディアより抜粋)
 主人公の女性、10代の時、兄に連れられて療養所に。ハンセン病と診断され収容される。前日母がどこからか手に入れた白生地を使い徹夜で作ってくれたブラウスは入所時に処分されてしまう。自由を拘束され何十年もの人生を送ってきた主人公がどら焼き屋を辞めざるを得なかった時の一言が印象に残る。「自分に非はないと思っていても世間はそれを認めてくれなかった」と。



<編集後記>
 村木さんのケースなどは典型だが、自分はなんら疚しい(やましい)ことはしていないと思っていても、ある時突然「容疑者」に仕立てられる。検察側の人間、大坪氏の場合でも同じだが、検察と言う組織は、どうやら出来るだけ大きな事件として告訴出来ないと納得しない傾向があるようだ。村木さんが逮捕された際は、その先に政治家がいるはずという前提だったようだし、大坪氏の場合は現場の検事だけでなく、その上の責任者として罪を問いたいということのようだ。いずれの場合も、ことを納めるために事実を追及するというよりも、世間に向けて納得する形を作ろうとした印象がある。

 ハンセン病の主人公、自分で病気になりたいと思う訳はない。しかし発病したとたん、社会から拒絶され隔離状態に置かれ、自由を制限される。自分は誠実に生きているのだから、自分には不幸は起きない、と信じたいのは誰も同じこと。しかし、運命の流れの中で自分にはどうにもならないことが身に起きることがある。そんな時どう生きたらいいのだろうか。その1つのケースが村木さん。仕事も子育ても一生懸命。仕事仲間も、村木さんは犯罪とは一番遠い存在だと言ったそうだが、そうした生き方を通すこと。それでも何か自分の身に起きた時は「たおやか」にそれを受けていく中で自分の主張を通して行くことしかないのかも。

  私の知り合いの一人、苦労人の彼が言った言葉、「人間すべからく状況の被害者です」と。被害者とはどういう意味?と聞くと。彼はこう説明してくれた。例えば生まれる場所。自分は神奈川に生まれたが、シリアで生まれたかもしれない。自分がどこで生まれるかは自分では選べない。自分で選べないものを嘆いても意味は無い。置かれた場所で誠実に、精一杯生きるのだ、と。



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