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256. 曽野 綾子 著 「夫の後始末」 を読んで ・・・  (2018/10/14)  




 こちらは前回紹介した、瀬古 浩也 著 「定年バカ」の本の帯に書かれた言葉。

 

 夫の後始末 [ 曽野 綾子 ]
  曽野綾子さんの本とは視点というか人生を描く位置(人生年表上)が違った。曽野さんの本は、嵐で陸の位置が分からなくなったヨットに遠くの灯台が陸地の方向を示すかのごとく最終目的地を示してくれている。本のタイトルのように死ぬ間際までをどう全うしていくかが描かれている。かたや瀬古氏の本は定年して直後、やることのなくなった男性向けに書いているだけでその先は何も書かれていない。

 すべての人間は死ぬ。別に私が言おうが言うまいが、生物学的真実。ならば人間死ぬ時には自分はどうなるのだろうかを想像し、出来る近未来(認知症以前)の自分をどうでありたいかを考える上でのヒントとなしうる。曽野綾子さんのこの本は、実際に自ら夫を見送った妻であり、かつ作家の視点、さらに言えばクリスチャンとしての信仰をもった著者の手で描かれている。つまり普通の人が気付かないような部分をしっかりと押さえてくれている。


 私がこの本を読んで感心したのは以下のくだり。第一部の中の、「話さない」は危険の兆候、の部分でした。

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 会話は、老化を測る一つの目安だ。会話は自分の中に一つの生き方があることを認識し、相手は相手で、また別の世界に生きていることを意識している時に可能なのである。しかし老化は、自分の生きている場の自覚を失わせ、相手の生きる姿に興味を失わせる。

 だから、老人が言葉少なになったら、一つの危険の兆候である。

 そのためには、若いうちから、会話の出来る人になっておかねばならない。会話は別に高級な内容でなくてもいい。ただ人間はふれ合う時に、その接点に熱を帯び、すべての精神のなめらかあが溢れ出るものなのだ。


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 瀬古氏の言うように、何をして暮らそうが自分の自由、ゆえにあなたも自由に生きなさい、と書いている。OK、ではその先はどう考えて本を書いたのだろうか。今を安心させてとりあえず終わり、という感じなのだろうか。
 

 おりしも、昨日(11/13)のNHKスペシャルで「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン 第3回▽健康寿命」が放送された。専門家と言われる人達ですら、その意外な結果に驚いていた。

 寿命と健康寿命の間には10年のギャップがあるのだそうだ。つまり最後の十年は認知症であったり、高齢化による疾患などによる健康とは言えない状態の中で生活し、言葉を変えると、何らかの介護を必要としそして死を迎えることになる。このギャップを少なくする「事柄」には何があるのかを、最近流行りのビックデータをAI技術を駆使して分析し、出てきた答えが意外や「本または雑誌を読む人」だった。

 実際のそうした視点から過去のデータを分析し直してみると、山梨県はこのギャップの少ない県。さらに調べてみると人口あたりの図書館の数が最も多い県だということが裏付けられた。なぜ本または雑誌を読む人の健康寿命が長いのかについて、番組出演者の一人はこう言っていた。「心が動くということは、体も動くということなんですよ」 と。なるほど〜。

 AIによるデータ分析から、「本または雑誌を読む人」という結果との関連性を調べていくと、趣味の世界、山登りや写真などといったことへの興味へと広がっているのが読みとれた。


 上記以外で私の印象に残ったキーワードは、

・子供とは別に、一人で暮らしている

  つれ合い(夫、もしくは妻)に先立たれ、その後を一人で暮らしている人の方が健康寿命が長いという。実際に老人問題の専門家によれば、子供と同居することによるストレスは、一人で暮らしている時のストレスよりも多いのだと話してくれた。

  また私の海外で一人暮らしをした経験からすると、親なり、奥さんなりが作ってくれた料理の栄養バランスなんて気にもしなかった。一番良い例がサラダ。私は、「上野動物園のライオンはサラダなんぞ食べていないが元気そうだよ」などと言っていただ、自分で自炊すると、栄養バランスを気にするようになった。これは誰も私の健康のことなど気にしてくれるはずがないので、自分で気をつけようと思ったから。つまりある程度健康ならば、自立心を持ってくらすのもよいのだろう。

・週4日以上友人と会っている

 曽野綾子さんの本の抜粋にもあるように、会話をしなくなったら要注意。反対に言えば、誰にでも話しかけられる自分でありたい。瀬古氏も、せっかく「定年後は自由に生きろ!」というのなら、「自由に会話も楽しめ!」とアドバイスしてあげたら良いのだと思うのだが。

・治安の良さが長生きにも関係

 ある都市で安全みまわりボランティアを募集し、見回って貰ったとこと犯罪件数が減ったのだそう。それに反比例し、人が出歩くことが増え、それがめぐってシニアの健康寿命アップに貢献したのではないかと。


 さて、話しをもう一度、曽野綾子さんの本に戻す。曽野さんの本によれば、老人というものはテレビの前に座って何もせず、ただテレビを見ているだけと思うのは間違いなのだ、と。

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  体が弱ると人は何をするかというと、普通はテレビを見ていると思いがちだが、私の周囲の高齢者に聞いてみても、テレビを見ているという人はあまり多くない。その第一の理由は、難聴者が多くて、音声を聴き取れなくなっているからである。

 <中 略>

 ついでに言うと、高齢者の身体的不自由を予防するために、聴力の保持は意外と大切なものだと思う。耳の聞こえの悪い人は、ぼけも早くくるような気がする。私達はふつう溢れるほどの情報の流れの中に置かれていて、喜んだり、あきれたり、うんざりしたり、奮発したり、「とにかく今日は寝よう」などと考えている。しかしそのような刺激が途絶えると、精神の活力はどうしても衰えるらしい。


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 私の体の中の退化を考えてみると

・腹筋、背筋の筋力の衰え ・・・ 足は、犬の散歩などで5,000歩〜1万歩前後歩いているのでまあまあだと思っている

・視力の衰え ・・・ 昨年、これからの10年の生活クオリティを確保したい考え、白内障手術を受けているので当分は大丈夫

・記憶力の衰え ・・・ 曽野さんの本にもあったが、「近過去」から忘れてくるのが高齢化の特徴なのだそうだが、この通りになってきている

・聴力の衰え ・・・ 普段意識したことが無かったのだが、たまたま娘が孫を連れて泊まりがけで遊びに来てくれた。夜は孫ともども早く寝てしまうもので、普段なら夜はテレビを見る楽しさを一部制限された。制限されたと言っても、孫が寝付かないと困るのでイヤホンで音声を聞いてくれと娘に言われたのだが。
 これで気が付いたことが。見ていたBS放送、DLifeで好きな番組「ER(救命救急)」、ドラマをイヤホンで聞いてみたら、それまで聞こえていなかった病院内のザワザワした音声までもが聞こえたのだ。えっ、今までもこんな音が入った状態だったの?私があきらかな聴力の衰えを認識した一瞬だった。

 とまあ、いろいろ書いたが、NHKの番組のように、図書館に行って、気に行った本を借りてくる。その行き帰りには、木々の葉の変化から季節の移り変わりを感じながら歩く。読んだ本のことを、誰が読んでくれるのかは別にして、こうしてパソコンのキーボードを打ちながら感想を記入していく。
 旅行をしたらしたで、撮りためた写真をホームページに掲載し 、感想こそ来ないものの、アクセス数のカウンター数字が増えているのを見て納得する。


 仕事もそうだ。ニュージーランド向けの輸出が、相手の都合で終わってしまったあと、時間が出来てしまった。一時期、モンゴル人ご夫婦が中古車輸出がしたいというのでお手伝いをしたが、それなりの事情があるのかとは思うが、遅々として進んでいない。ならばと、たまたまバカンス旅行のフィジーで出会った中古車屋さんの希望を聞いて、なんとか彼が欲しがっている、日本のタクシー車両(LPG仕様)をなんとか買ってあげられないものかと算段している。こんな具合に小さな「やること」を見つけている。

 ふと思い出したのが、以前の日経新聞にあった言葉。シニアには「キョウイク」と「キョウヨウ」が大事と。ここでいう「キョウイク」とは「今日、行くところを」、そして「キョウヨウ」とは、今日やるべき用事がる、ということなのだろう。幸いにして、この二つを見つけることに不自由はしないで済んでいる。


<編集後記>
 曽野さんの本は、いつ読んでも、最後まで一気に読み終えることが出来る。つまり途中で飽きたりしないのだ。人間の興味は、本でも講演でも、そう長続きはしない。ゆえに、こうした人間の特徴を知った上で、話題を次々と変えていく(短いトピックスを重ねていく)ように書かれていると、お陰で読む方は飽きないで済む。ここあたりも曽野さんの作家としての経験と実力の差なのだろう。 



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