238. 定年後のこと(資産 Part
II ) ・・・ (2018/04/08)
※ 60〜64歳の資産の過剰取り崩しを抑制することがカギ
前回も書いたが、定年時に資産運用といったことをあらためて考えたりはしなかった。基本的な考えは「今ある資金でやるしかない」だったからだ。むしろ考えたのは、会社勤めと言った縛りがなくなった(自由になった)今、次に何をしようか、だった。それも稼ぐというよりは、時間つぶし(自分をヒマ人間にしない)として、が始まりだった。
さて、日本経済新聞
2018年4月5日の夕刊の「十字路」というコラムにこんな興味ある解説が出ていたので紹介します。執筆者は、フィディリティ退職・投資教育研究所の野尻所長。要点だけ書き出してみるとこんな感じ。
退職という言葉が「仕事からの完全引退」を意味しなくなり、
・
現役時代を「勤労収入 > 支出」 ・・・ 支出を上回る収入がある
・ 退職後を 「勤労収入 < 支出」 ・・・ 支出が収入を上回り、退職後資産からの取り崩しを避けられない。
と定義し、対策を考える時代になった、と。
このあたりは私のような一個人では分からない事実だったが、この著者の説明によれば、
退職している60〜69歳の「年間生活費」の中央値はほぼ「330万円台」。
(前半の)60〜64歳では、生活費の13.5%を金融資産の取り崩しで賄っていた。
(後半の)65〜69歳の5.9%に比べて格段に大きい。
とあった。なぜこうなるのかと言えば、一般的には公的年金の受給が始まるのが65歳からだからだ。
この時期の資産の過剰取り崩しを抑制するために「勤労収入=支出」の時期を想定すべきだ。
とあった。どうやってこういう構造を作るかは簡単なように思う。つまり、収入に見合う生活をしなさい、ということだろう。でないと、老後のまさかの時に保有金融資産が不足する事態に陥る可能性が増えることになる。
いつも老後の問題を語る時の難問は「変数(余命)」が分からないこと。つまり
所有金融資産
------------------ = 年間利用可能資産
余命
ということ。変数が人間の決められることではなく神のみぞ知る領域となれば、私の考えは簡単で「ケセラセラ」、つまり「人生、なるようになる」というドリス・デイの歌の文句と同じになる。
ただ、何の努力もせずに、酒を飲んで暮らせば良いとも思わない。与えられた枠の中だけで神から許された自由を使って「より良い状況でありたい」と動くことだと思っている。その結果が、定年後の事業を始めた所以。そしてそれは、単純にお金の問題だけではなく、生きて活動しているという実感、社会との繋がりを持つ(孤独ではない)意味なのだと私は思っている。
私はシニア問題評論家でもないし、研究者でもない。自分で実際に小さい事業を起こし、実践してきたものとしての感想である。