232. 人生100年時代をどう生きるのか?(PartII)
・・・ (2018/02/18)
先のページで紹介した私のマルチライフですが最初からこの形を想定していたわけではありません。一番最初の米国留学が大きなターニングポイントになり、それ以降はその時、その時に自分がやりたいと思えるものを選択してきたらこういう結果になった、というところです。
こんな私ですが、選ばなかった人生もあります。例えば30代、パソコンにのめり込み、あちこちのパソコン雑誌に投稿し、パソコンメーカーにも機器の貸し出し交渉までしてきました。最終的には大手コンピュータ雑誌社から特集のテーマについて相談されるまでになりました。この時、好きなパソコンの分野で独立出来ないかも考えました。結果、家族(妻、子供3人)を養っていけると思えなかったもので、従来の勤め人を続けることにしました。(その後数年して、IT業界に転職することには成功しましたが)
つまり出来るタイミングで、したいことに転職する。それも、給与額で選択をするのではなく、まだやったことのない領域の仕事を任せて貰えるのかどうかが判断の基準でした。振り返ってみて、60歳定年までの転職は、まずまず成功と言って良いだろうと思っています。
先にも書きましたが、大学の指導教授のアドバイス、神様は皆に平等に運を回してくれる。ゆえに個々の人間がすべきことは、運が巡ってきた時にその流れに乗れる準備を日ごろからしているのかどうかが大事、と。本当にその通りだと思っています。勤め人を続けながら、いつも何かを勉強してきました。また新しい仕事との出会いが、次のステップへのとても良い勉強の場になったと言えるでしょう。
自分が何歳まで生きられるのか?誰も知らない。なのに定年年齢が分かるからと言ってそれを基準に老後を考えるのはどんなものでしょうか。なんだか勿体ないですよね。いっそ定年は単なる「通過点」と思ってみてはどうでしょうか?私の場合、若い頃に独立したいと思いつつも生活が成り立たなさそう、と断念しています。その意味で、定年は千載一遇のチャンスと思えます。すでに子どもたちは大学を卒業し仕事に就いていました、住宅ローンも払い終えているわけですから、今からなら何でもやれる、ということです。
むろんそれなりの制約を自分の課している部分もありました。まず、借金はしない。初期投資の額を決めておき(私の場合は中古車輸出を始めるにあたって300万円用意しました)、それで事業がスタート出来なかったらあきらめること、などでした。
やってみて、小規模ながら事業を起こし継続することは、とても大変ではありましたが楽しいものでした。大変だったのは(おおきなうねりに飲みこまれそうになったのは)2回。1つは東北の震災のときのこと。輸出車両が港での放射能検査にひっかかり、輸出差し止めになる車が続出したこと。業界全体がこの状態で、問題だったのは、輸出差し止めになった車(放射能汚染車)を再度、中古車オークションで販売しちゃえ、という人が多かったこと。そもそも放射能は目に見えませんし、特定の検知器など持っている人がいるはずもなく、結果、中古車オークションはババ抜きをやっている状態でした。これではまともにビジネスが出来るはずもなく、短期間休眠にしました。
ほどなくパニック状態も落ち着きをみせ、震災翌年、翌々年は中古車輸出も好調でした。状況は中古車輸出を手掛ける事業者にとっては同じ。ところがです、そこで大手さんが一気に勝負に出ました。月に1万台を超える中古車を専用線で、どんどん東アフリカ(右ハンドルの国々)へ輸出を開始しました。結果、東アフリカの中古車市場は飽和してきました。中小零細の輸出は、みるみる落ち込んで行き、当時知り合った方々、およそ30名は、次々撤退していきました。これが2回目の試練でした。