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202. 出た人、出なかった人 ・・・ (2016/10/09)  


 大学時代のゼミの指導教授は人事が専門分野でした。企業から委託を受けて管理職研修などを行っていました。ある時私が助手として同行させて貰えることになりました。その時の内容はこんなでした。

 S先生が、「今からある実験を行います。この実験には三名の方のお手伝いが必要です。どなたか手伝っていただけますか?」と。  まずはお一人が手をあげてくれました。その方には壇上に上がって貰いました。

 続いてS先生が声をかけます。「他にいらっしゃいませんか?」  次の方が手をあげてくれ、同様に壇上に上がって貰いました。

 S先生が、「冒頭お話ししたように、この実験には三名の方のお手伝いが必要で、三名がいらっしゃらないと成立しません。もうお一方、ぜひお手伝いをしてください」。  ようやく三人目の方が手をあげてくれました。するとS先生が宣言しました。「これで実験は終わりです」と。参加者たちは、「えっ、これで実験終わりなの?」と驚いた顔をしていました。

 続いてS先生は壇上に上がってきた三名の方に「どうして手をあげてくれたのですか?」と尋ねます。最初の人は、「何の実験だか分からないけど、面白そうだったので」と答えました。次の人は、「最初に手をあげる勇気はないけれど、お一人手をあげたので、ならば、と手を上げました」。そして三番目の人は、「S先生が、三名揃わないとこの実験が出来ないとおっしゃられたので、成立しないとマズイと思い、手をあげました」と。


 会社組織に属していると、この三名に相当する人(リーダー=ものごとをリードする人)はごく一部で、大多数は(フォロワー=皆の動きについていく)手をあげなかったセミナー参加者ということになります。ですので、定年になったからといって、さあ今日からあなたはリーダー(自分の人生を先導する人)です、と言われても急には進路変更出来ないでしょう。

 自分の人生をリードするという意味でのリーダーになるためには、何か「行動」を起こすことから始めてみると良いでしょう。先日の私のエッセイではありませんが、山を一つ越えてみれば、向こう側の景色が見えてきます。特に超えた人がエライ、超えなかった人はエラくない、というものでもありません。ただ、超えてみないと分からないものが、超えることで(山の向こう側の景色が)見えてきた、というだけのことです。

 定年後、組織を離れたら、前述のような講習があったとすると参加者はあなたお一人です。「この実験にはお一人・あなた自身の協力が必要です。いかがですか、手をあげてこの実験に参加してみませんか?」となります。つまり、自分がやってみようかねぇ、と思えたところからがスタートです。あなたの人生を作るのはあなたなのですから。






 ここまで読まれてどう感じられたか分かりませんが、少なくとも大学生時代までの私は、前述のようなセミナーでは、最後まで手はあげないタイプでした。どこで変わったのかと言えば大学生時代に参加した高校のクラス会がきっかけでした。集まったのは10名程度だったかと思います。高校時代の担任を囲んで新橋で宴会をしました。先生が、一人ひとりの名前とエピソードを語り始めました。M、お前は問題時だったなぁ〜、とかです。さて、私の番になった時、先生が覚えていたのは名前だけでした。高校時代の私は、特に成績が優秀だった訳でもなく、はたまた先生の記憶に残るほど悪ガキでもありませんでした。このため、先生は私の顔と名前は覚えていたものの、どんな学生だったのかの記憶が残っていませんでした。

 ショックでしたねぇ、自分がそんなにも印象が薄いなんて。そこで(今からでもいいから)成績優秀者になれないなら、いっそワルになってやろうか、などと考えました。高校時代の私はクソ真面目な生徒で、学校に週刊平凡パンチなどを持ってくる同級生に、不謹慎だ、などと思うような高校生でした。しかしこのクラス会の件以来、なんとか”変わってやろうと”思いつき、軟派の雑誌を持って大学に行くことにしたりして。平凡パンチなんてものではインパクトがないので、思いついたのが、当時輸入が始まっていた米国版プレーボーイ誌でした。まあそれまで可もなし不可もなしのような学生でしたので、まあ、がんばってはみたもののあいかわらず、普通の学生の域を出ませんでしたが。それなのになぜかゼミの先生に気に入られ、前半のエピソードのように、在学中から先生の助手のようなこともしていたわけです。





 大学卒業後の進路は、大学3年の12月に決まっていました。というのも(前述のように)ゼミの指導教授がコンサルタントをしていた先の企業に紹介をされ、内定が決まりました。このお陰で大学4年時代は、のんびりと過ごすことが出来ました。さて、その企業に入社したわけですが、半年の現場研修のあと、営業部に配属されました。

 繰り返しになりますが、同級生も良く知っていますが、当時の私は、人前でしゃしゃり出るタイプではありませんでした。ですので、大学卒業後就職した先で「営業部」に配属されたことを知った学生時代の友人たちは、「お前の会社、よほど人材難なんだなぁ〜」と。つまり「お前のように人前で上がってしまうようなヤツに営業なる仕事が務まるはずがない」というのが、学友の共通の認識でした。


 さて、高校のクラス会でのエピソードの話しをしましたが、更にそれを上回る、生き方の転換をもたらしたのがアメリカ留学でした。性格的に合わない営業という仕事で、一時、胃を悪くしたりがあったものの、ある時期から吹っ切れるようになり、現場の年配者からも認めて貰えるようになりました。当時この会社に勤めて3年半目でした。ちょうど留学から戻ったばかりの友人と会ったのがきっかけで自分自身が留学することになりました。末っ子で長男、自分でも軟弱(?)と思っていた私が、たいした語学力もないのに、孤立無援の留学生を始めたのは、その後の生き方に大きな影響をもたらしました。

 もっとも孤立無援と言いましたが、持ち前の「人好き」な性格が幸いして、いろいろな友達を作り、彼らがその後の私の人生に大きな影響をもたらしてくれました。





 これ以上書くと、日経新聞の「私の履歴書」のようになってしまいますので、終わりにします。まあいろいろあって、引っ込み思案な私が変わったと印象づけるお話しを最後にしておきましょう。

 イスラエル系企業の日本事務所立ち上げから3年半、苦楽をともにした上司がアメリカ本社に帰任しました。そのことを知ったある会社の社長から声がかかりました。「そちらの仕事が一段落したのなら当社に来て貰えませんか?」。いろいろ聞いてみると、ある時期突出した売り上げの出た英国本社が、米国の企業2社を買収したとのこと。よって日本支社も、メインの会社に、他の2つがマージされることに。それぞれ日本で社長だった人が、本社の統合の関連で社長から事業部長に格下げになるわけです。これを統合するのに複雑な人間関係が出来てしまうもので、社長の考え方の近い私に白羽の矢がたったわけです。まあ、私は、そうした人間関係には無頓着でしたので、OKして、3部門あるうちの1つの事業部を引き受けることにしました。

 採用されてから、私を誘った社長いわく、「こんな複雑な事情なのに、よく決心が付きましたね?」だそうでした。自分で誘っておいて、、と笑いました。自分がどう考えたかというと、勤める会社を変わることで、今までやったことのない仕事が出来るチャンスがある訳ですから、断る必要はないと思ったのでした。私を誘った社長いわく、「自分にはそうしたチャレンジが出来ないタイプ、あなたのことをすごいと思う」とのことでした。

 サラリーマン3年半目でアメリカへ留学し、ここで既に永年勤続という概念から外れた私にしてみれば、一か所に長くいることのメリットより、チャレンジする場に乗ることで可能性を作るメリットが大事、と思ったわけです。乗りますか?降りますか?と聞かれれば、まずは乗る方を考えていました。これが50歳少し前だったかと思います。


 このレベルの変身であれば、誰でも変われると思います。(もっとも)もし自分自身が変わりたいと思っているならば、、、ですが。



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