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154.認知症の母とのつきあい  ・・・ (2014/02/26)

 自分の考えを整理するためにも、どこかでこのテーマで書かなければと思いつつ、認知症という状態の母(93才)をどう受け入れたら良いのか、正直戸惑っていた。


 以前、NHKだったかの番組の中で、認知症予防に「料理をすること」は役にたつとの話があったのを記憶していた。料理には「火」や「包丁」を使うので、それに気を付けることが認知症予防効果がある、といった内容だったかと思う。
 当家は一戸建で(当初は三世代同居だった)、主婦の居場所としての台所は1階と2階とそれぞれにある。これは我々の子供が小さかった頃、子供が好む料理と年配者が好む料理とが違うことを配慮して、こうした作りにしていた。父が83才で亡くなったあとも、母は自分のことはなんでもこなしていた。それは、軽い認知症になっていても変わらなかった。自分の料理くらいは自分で作れるのも分かっていたが、ある時期から家族揃って食事をしようと家内が誘って、まずは晩御飯から一緒するようにし始めた。認知症が進むにつれ、朝食も、更に昼食も一緒に、となってきた。

 認知症の老人との付き合い方は、母と私がお世話になっているホームドクターから聞いていた。物忘れしたり、間違ったことをしても指摘したりせずに受け止めてあげるとよい、とのことだった。これが案外難しい。母親の認知症が進んできて、おかしな会話をしたり、おかしな行動をしたりすること、その事実を自分の中で受け止めきれず腹をたてたことも多々あった。

 これはまずい、と思った最大のことは、冬場使う「湯たんぽ」のこと。冷めた「湯たんぽ」を栓をあけ、そのままガスコンロに乗せ温めなおして使っていた。ある日、「湯たんぽ」のお湯を入れ替えてあげようと母の布団から引っ張り出そうとして驚いた。多分、栓を開けずにガスコンロに乗せたようだ。ブリキ製の「湯たんぽ」がはちきれんばかりに膨れ上がっていた。それを平気で布団の中に入れていたのだった。状況からして、まかり間違えば、アルカイダの「自爆テロ」状態になりかねなかっただろう。この時は、自分の感情が抑えられず、「何をやっているんだ!」どなりまくった。

 そんなことがあって、ブリキ製の「湯たんぽ」は廃棄し、プラスティック製を買ってみた。しかし、長年の習慣からか、お湯を沸かしたヤカンをどけたあとのガスコンロ(勿論、火は消してはあるが)十徳の上にプラスティック製の「湯たんぽ」の乗せ、やかんのお湯を注いだようだ。熱くなっていた十徳の上にプラスティック製の「湯たんぽ」を置くものだから底が焦げてしまっていた。母の古い記憶では、「湯たんぽ」は十徳に置いた状態で湯を注ぐのがいつもだったのだ(そのまま追加加熱が可能だからだ)。

 大正生まれの人間ゆえか、電気毛布や電気アンカも用意してみたが、やはり「湯たんぽ」でないと納得出来ない様子だった。最初、認知症はモノを忘れるのだと思っていたが、付き合っているうちに分かってきたのは、新しい記憶が出来なくなっているのだということが分かった。50年前、60年前のこと、古い記憶のことはとうとうと話して聞かせてくれるが、5分前、6分前のことが分からない。「湯たんぽ」というクラシックなものでないと受け入れが難しい様子。



 いつからだったか忘れるくらいの以前から携帯(PHS)を母に持たせるようにしていた。いわば迷子札と思ってのことだった。ある時期から、電話に出る方法がわからなくなった。幼稚園の子供でも、携帯電話が鳴ったらボタンを押して会話することくらいできるだろう。しかし93歳の母にはこれが出来なくなった。受信音がなっている携帯を持って私のところに来て、「これ、どうしたらいいの?」と聞くようになった。こんなだから携帯電話で電話をかけることも出来なくなった。ちなみに母に持たせている携帯(PHS)は「安心だフォン」というモデルで、テンキーの他にボタンが3つあって、テンキーを押して通話するのではなく、3つのボタン(私と二人の姉)につながるホットラインとして使える機器だった。ある時期から、この操作もわからなくなった。

 しかしだ、プッシュ式の固定電話ならなんとか番号メモを見ながら姉に電話することも出来た。こんな具合に新しい記憶は消えて行き、古い記憶のみでなんとか生活をこなすようになっていた。(余談だが、あるテレビ番組で、ダイヤルを回す方式の古い電話器を若者に見せて、電話をかけてみて?と言ったら、数字の見える穴に指をツッコミ押していた。新しい記憶があっても、古い記憶など持ち得ない若い世代に操作方法すら分からないのと丁度逆なのだろう)


 我々の世代、どこかで親の看病をしたり、どこかで認知症の親と向き合わざるをえないのは承知している。父が認知症になったときは、まだ私はサラリーマンをしていたので、日中は母が一人で面倒をみていた。父が亡くなってから、ずっと自分のことは何でも自分でやってきた。その母が認知症になった。そんなことになっても良いようにと定年後に自営業を始めたつもりだった。しかし、頭で分かっていても、実際に母が認知症になってみると、それを正面から受け止められていない自分がいる。

 そんなことで、このテーマで文章をおこし、自分の考えを整理したいと思いつつも、どう整理すれば良いのか、まだ戸惑いの真っ只中のままだった。それが、一度文章にまとめてみようと思ったのは今日だった。きっかけはこう。

 今朝、朝食にと2階に上がってきた母が私の顔をみながらこういったのだった。「あなたお生まれはどちらですか?」と。「杉並区阿佐ヶ谷です」と答えた。「阿佐ヶ谷ですか。いろいろ思い出すことがあります」と。なので私はこう言ってみた。「以前、阿佐ヶ谷に住まわれたことがあったそうですね?」と。すると母は嬉しそうに「あら、私のこと、良くご存知なのですね」と。 


 今まで母との距離が近いが故に、認知症でボケていく母を正面から受け入れ切らずにいたが、この一件で少し母を客観視することが出来るようになった気がする。父があの世から母を迎えに来るまでは、こんな感じで付き合っていくことになるのだろう。




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