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115.シニアよ大志を抱け? ・・・ (2012/08/12)

 日経新聞を購読されている方は、「大機小機」というコラムをご存知かと思いますが、7月の20日のコラム「シニアよ大志を抱け」にこんなことが書いてあった。


 60歳代はまだ働き盛りであるが、勤め人の場合はお役御免となる。晴れて引退して一時は趣味や娯楽に興じても、いずれ有り余る体力と気力を持て余すことになる。

 なるほど。このあたりは、以前当ホームページにも紹介したが、詳しく知りたい人はこちらの本「定年後の8万時間に挑む」をお読みになると良いでしょう。


 つづけて

 そうなると「きょうよう」と「きょういく」が大事、すなわち「今日用事がある」「今日行く所がある」が大事ということになりかねない。

 とあった。さすがジャーナリスト!とまとめ方に感心させられた。


 60歳代のシニアの多くは、社会との関わり方を模索している。自らの世界にこもるのではなく、まだ社会でやれる、やり残しがあるという思いで、機会があればこれまでと違う分野で、社会に貢献したいとの思いを持っている。

 こちらについても、その通りだと思う。しかしその後に続く文がどうもしっくりこなかった。


 シニアがボランティアベースで引き続き社会に貢献することが、日本社会の行き詰まりを打破し、日本社会に本来備わっている美徳を引き出すことにもつながるのではないだろうか。

 これそものに異論はないのだが、、どうもこうしたシニアがやるべきこととして、「ボランティア」という方向のみが取り上げられることには違和感がある。

 この事例に限らず、世の中の多くの人に”大きな誤解”があるように思う。それは公益団体だから公益の仕事をしていて、民間は営利だけを求め公益には寄与しない、という単純な理解だ。私は若い時代(30歳)、財団法人の立ち上げにかかわった。既にある財団法人をいろいろ調べてみたところ、驚いたのは、公益法人とは名ばかりで、公益の役になどたっていない法人が、いかに沢山あったか、であった。自分が設立に拘わった財団法人では、こうしたことにならないようにしなければと戒めにした。

 その後、学校法人、社団法人と経験をし(経験していないのは宗教法人くらい?)、その法人が社会に貢献するかどうかは、ひとえにトップに立つ人間の「哲学」とそれに基づく「行動」によるものだと分かった。けっして器(財団法人か株式会社か)のみで決まるわけではないと知った。

 公益法人でも、公益に寄与していない法人があるように、株式会社は営利だけを求めているように思われやすいが、実際には世の中のためになろうとがんばっている株式会社も沢山ある。


 もう1つの問題は、シニアになってボランティア、というのは良いのだが、満足感をどうやって得るのか、である。私の母などは、良いことは、誰に話す必要もなく、ただ、たんたんとやれば良いのだ、という。92歳になった今も、送られてくる封書に貼ってある切手を切り取っては、どこかの団体に送っている。理由を聞くと、この古切手が「老人福祉」の役に立つのだという。多分、その老人福祉の対象者は母よりも年下の人たちなのだろう。


 私は、その意味ではまだまだ俗っぽいのだろう。やはりそのことを通じて貢献できていることを”実感”したいのだ。若い頃勤めていた大学で国際交流をやっていて、また、40〜60歳までは働いたIT企業での経験を生かせる現在の仕事、「中古車のアフリカへの輸出」へと繋がっている。自分が輸出した中古車(ほとんどが船賃込みで2000ドル程度)がアフリカの人に喜ばれ、更にやった努力の結果が成績表に金額として残る。


 こんな具合に、世の中一般の考えでは、現役時代はバリバリのビジネスマンとして日本の経済成長に寄与し、定年になったら非営利で社会貢献する、ということのようだ。しかし私の場合は、どうも逆に行っているようで、若い時代に15年強、公益法人(財団法人・学校法人・社団法人)で働き、もっと活躍してみたいと定年前の15年ほどは外資系IT企業で働いた。さらに定年後も、こうして営利事業を個人起業した。自分では、趣味と実益を兼ねた仕事だと思っている。多分、ビジネス分野での燃え残りがあるのだろう。


 とまあ、私がいわんとすることは、60歳までがんばったのだから、定年後は、誰かが引く線の通りに動く必要もなく、自分が生き生き出来る場が作れるのなら、誰に遠慮することもなく、どんどん自分独自の世界をまい進すれば良いのだと思う。




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